うに思われるんです。頭がよくて悧口だけれど、余り無邪気な所のないのがいけないんです。向い合っていると、こちらの心の底まで見透されるような気がする時があります。そのために、私の方にもいろんな僻みが起るんです。余り考えすぎるからいけないんだとは知っていますけれど、隆ちゃんが始終暗い影を背負ってるように思われて仕方ありません。その影が……。」云ってるうちに周平は、持て余してる自分の心を保子の前にぶちまけてしまいたい気になっていった。「その影が私を脅かすんです。なぜそんなにこだわるのか、自分でも分りません。私は悪いことをしてしまいました。」
「悪いことって、何なの。」
「悪いことです。あなたや横田さんの信用を裏切ってしまったのです。」
「どうして?」
何等の疑念もなさそうに澄み返ってる彼女の眼を見ると、周平はさすがに云い出しかねた。じっと眼を伏せて唇を噛んだ。
「どうしたの、中途で黙り込んでしまって。云ってごらんなさいよ。私にも大抵分ってるような気がするけれど……。」
「済みません」と周平は云った。「吉川さんの日記を見たのです。」
「ええ? 吉川さん……。」
「吉川さんの最後の日記を見たのです。先生の本箱の抽斗にあったのを……。」
保子がさっと顔色を変えて少し身を押し進めてきたのを、周平は顔を伏せながら感じた。然し彼の心はもう動揺しなかった。云ってしまうと、絶望の底に自分自身を投げ出したような、一種の無感覚な惘然とした気持になった。そのままでいやに真剣に落着き払っていた。
保子も黙っていた。しいんと音がするような夜だった。隆吉は向うの室で眠っていた。電灯の光りがだだ白くて明るかった。周平は静かに顔を挙げた。石のように凝り固まった保子の顔がすぐ眼の前にあった。
「井上さん、」と保子はやがて云った、「あなた吉川さんのことを誰かに聞いたんでしょう。」
「ええ聞きました、嘘だか本当だか分らないような話を。然し誰からだかは尋ねないで下さい。」
「そしてあの日記を探す気になったのね。」
「いいえ。偶然に見つけたのです。」
「嘘。偶然に本箱の抽斗をかき廻す人があるものですか。」
「他のものを探すつもりだったのです。」
「何を?」
周平は首垂れた。ひとりでに涙が湧いてきて、眼瞼からこぼれそうになった。然し感動してるのではなかった。その涙を側からじっと見戍ってるような[#「見戍ってるような」は底本では「見戌ってるような」]心地だった。彼は疊の上を見つめながら、自分自身に向って云うかのように語りだした。
「私はあなたの日記を探すつもりだったのです。」そして彼は、涙が頬に流れ落ちるのをぼんやり感じた。奥さんと云わないであなたと云ってることも、保子がびくりと眉根を震わしたことも、共に知らなかった。「先《せん》にあなたから日記の一部を読んできかせられた時から……いえ、ここに留守に来てから、あの日記を全部見たくなりたのです。どうしてだか自分にも分りません。ただ見たかったのです。そして、あなたの室を探したけれど見つからないので、絶望的な気持になって、半ば自暴自棄にもなって、先生の書斎を検《しら》べたのです。すると、吉川さんの日記が出て来ました。……私は自分自身が堪らなく惨めな気がします。何とでも仰しゃって下さい。どうしていいか自分でも分らないのです。」
口を噤むと、風が吹過ぎたような静かな心地になった。彼は保子の厳しい声を安かな心で受けた。
「あなたはよくも平気でそんなことが出来たものね、まるで泥棒みたいなことが! それで正気ですか。」
周平は黙っていた。保子はまた云った。
「あなたは自分のしたことがどんなことだか分っていますか。」
保子が本当に怒ってるのを周平は感じた。眼を挙げてみると、彼女は少し引歪めた唇をきっと結んで、赤味のさした頬の肉を震わせながら、白目がちに眼を見据えていた。それでも彼は落着いた調子で答えた。
「自分ではよく分っているつもりでいます。」
「分っていながら、白ばっくれて図々しくしてようというのでしょう。」
周平は抗弁したいのをじっと抑えて、また顔を伏せた。彼女こそ何にも分っていないのだ、と思った。然し、この上自分の心を説明したくもなかった。しようとて出来もしなかった。ただ黙って彼女の叱責を受けたかった。それがせめてもの心やりだった。今更意中をうち明けたとて何になろう。彼女は自分が畏敬してる横田氏の夫人なのだ! それを思うと彼は、背中が冷たくなるのと眼の底が熱くなるのとを、同時に感じた。
「私あなたをそんな人だとは思わなかった。」と保子は云った。「あなたのためには随分尽してあげたつもりよ。此度留守を頼むのだって、あなたならば大丈夫だと横田にも私から保証したのよ。それなのに、あなたはまるで私達を踏みつけにした仕業をしておいて、自
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