たし、東京に残ってる者等には、横田の家で暑中を過すことを知らしていなかった。横田一家の不在中に、友人等を集めて勝手なことをするのは、何となく憚られたのである。それで、村田と野村とが各一度訪ねてきたきりだった。其後村田は旅に出ていた。
 周平は為すこともなくぼんやり日を過した。自由にしていいと云われていた書棚から、書物を取って読んでみたが、少しも気乗りがしなかった。退屈だった。退屈を通り越して妙に頼りなかった。この心の不満は何処から来るのか、と彼は自ら尋ねてみた。然し実はその原因を知っていた。知っていながらそうだと認めたくなかったのである。
 昼間はそうでもなかったが、夜になってあたりが静まると、彼はいつのまにか保子のことを考えていた。それが、今は亡い遠い昔の人を偲ぶような心地だった。彼は記憶の中を探って、彼女の姿をはっきり其処に現わそうとしていた。宛も石塊に彼女の像を刻むがようなものだった。初めはただ漠然とした立像だった。それに、清い純な光りを放つ鋭い眼が出来てきた。眼から少し間を置いて、すっと刷いた美しい眉が見えてきた。理智的な淋しい影を浮べて引緊ってる頬の曲線の中に、上下が少し歪み加減にきっと結ばれてる薄い唇と、口角の深い凹みとが、現われてきた。それから、やや四角張った男性的な額を巧に隠してる房々とした髪、よく傾《かし》げがちになる細い首、力無さそうな痺せ形の上膊と胸部、全身の重心となる腰部、すらりとした股から足、長い手指の先の艶のいい小さな爪、……それらが順次に形を取っていった。それだけの像を頭の中で刻むのに、彼は可なりの時間を費した。気長にゆっくりやるのが楽しみだった。腑に落ちない点を見出せば、すぐに其処を壊してまた作り直した。像が出来上ってしまうと、夢みるようにしてぼんやりそれを眺めていた。然し気の持ちようによっては、像はすぐにぼやけて消え失せてしまった。殊に昼間は、どうしてもうまくまとまりがつかなかった。
 それが彼には淋しかった。そして、その淋しさの原因を知っていながら、他に何等かの口実を探そうとしただけに、益々変に気を惹かれていった。彼は自分の脳裡に在る保子を、現存の人物でないような風に眺めた。其処に淡い感傷があった。彼は拵え上げた保子の像を眺めるだけでは満足しないで、しまいにはそれを歩かせたり坐らせたりした。室の隅や庭の中や自分の周囲に、その時々の気分の赴くままに動き廻らせた。
 そのうちに保子の像は、或る一つの姿を取って、其処で動かなくなってしまった。
 それは、彼女が日記を読んできかしてくれた姿だった。桔梗の模様を浮出さした凉しげなメリンスの着物に包まれて、彼女の姿はいつもよりなお清らかだった。それが机に半身をもたせかけ、庇うように両袖で日記帳を押隠しながら、腰と筋頸とに軽いねじれを見せて振り向き、底の知れない輝きを含んだ眼付で、こちらをじっと眺めていた。彼は怪しい魅惑をそれから受けた。
 夕食後庭を歩いていると、ふと、彼女のそういう姿が奥の室にあるような気がした。二階に寝転んでいたり、散歩から帰ってきたりしても、やはりそうだった。然し、女中に気兼ねしながら何気ない風で、そっと奥の室を覗いてみると、こちらから射す電燈の光りが、蔦の葉模様の襖に芒と映ってるきりで、室の中は薄暗くがらんとしていた。
 或る日、昼間、女中が用達しに出かけた後で、彼は奥の室にはいってみた。それは殆んど保子が独占してる室だったので、彼はまだ一人で足を踏み入れたことがなかった。何かが期待せられるような心地でそっとはいってみると、中の有様は以前と少しも違わなかった。左奥の窓際に寄せて机が一脚置いてあり、上には硯やインキ壺がのっていた。壁に沿って箪笥が二つ並んでいた。床の間には、袋にはいった琴が片隅に立てかけてあり、他の隅に大きな鏡台があって、鏡の面には友禅縮緬の鏡掛が垂れていた。彼はそれらを一通り見渡したが、何だか非常に淋しかった。彼女の居ないのが物足りなかった。鏡の前に行って鏡掛をはね上げながら、自分の顔を映してみた。生気《せいき》のない衰えた顔付だった。鏡台の抽斗を開けてみた。櫛や簪や毛ピンが沢山はいっていた。次の抽斗には化粧壜が一杯はいっていた。どれもこれも使い古しばかりらしかった。その一つを取って嗅いでみた。褪せたほのかな匂いきりしなかった。
 その時、玄関の方に人の足音がした。彼ははっとして、急いで室から出て、縁側に佇んだ。女中が帰って来たのだった。女中はすぐに台所の方へ行った。彼は漸く安心した。と共に、胸の高い動悸を覚えた。
 その偶然のことが、後でひどく気にかかった。気にかかりながらも、心が惹かされていった。やがて彼は、保子の日記帳を探し出してやろうと計画してる自分自身に、我ながら喫驚した。それは、横田夫婦の信頼を裏切る行
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