為であり、また、最も卑劣な賤しい行為であった。然し、一度滑りかけた心はどうしても止まらなかった。その上、口実は如何様にもついた。日記によって保子の本当の心を知ることは、変な所へ陥りかけた自分自身を正当な位置へ引戻すべき、唯一の方法らしく考えられた。それによって未来が安泰となれば、一時の罪は十分に償われる筈だった。あの時、内密で読んできかせようと云った保子の態度を考えると、全部を見せたい気持が、自分を啓発したい意志が、或は彼女にあるのかも知れないのだった。……兎に角、行く所までいったら後は自然に途が開けてくるだろう、そう彼は結論した。
斯くて彼は、彼女の日記を探すべき機会を窺った。
女中は洗濯物をしたり居眠りをしたりして、なかなか家を空《あ》けなかった。それでも時々買物に出かけた。周平はその僅かな機会をも遁さなかった。後には可なり大胆になって、用を拵え出してはその使に行って貰った。不用心だからという口実で、裏口はすっかり閉めさせ、玄関の硝子戸には釘をさした。そして彼は保子の日記を探した。
けれども、箪笥などにはさすがに手をつけ得なかったし、机の抽斗や袋戸棚や手文庫などを検べている最中にも、ふと恐ろしい気がして、其処を逃げ出すことがあった。その恐ろしさが静まると、自分が自分でないような妙にぼんやりした心地になった。そして彼は空虚な心で、縋るように保子の幻を描きだした。
保子からは、向うに到着の葉書が一本来たきり、何の便りもなかった。彼は益々胸苦しい気分になっていった。
「井上さん、」と女中は云った、「何を毎日ぼんやり考え込んでいらっしゃるの。少し散歩にでもお出かけなさいな。身体に毒ですよ。」
「家にじっとしてる方が涼しくていい。」と周平は答えた。
「あなたは実際変っていますよ。一日誰とも口を利《き》かないでよく淋しくありませんね。……奥様もそう云っていらっしゃいましたわ。井上さんは気が向くとよく饒舌るけれど、気が向かないと黙り込んでばかりいるって。そりゃ誰だって、口を利きたくない時もありますけれど、あなたみたいに、幾日も黙っていられる方は珍らしいですよ。」
「横田さんだって随分無口の方じゃないか。」
「でもあなたほどじゃありませんよ。……奥様と喧嘩なすった時は別だけれど。」
「え、横田さんが奥さんと喧嘩なさることがあるのかい。」
「あるってほどじゃありませんわ。私が来てからただ一度きりですから。」
「何で喧嘩なすったんだい。」
「何でだか私は知りませんけれど、お二階で夜遅く迄云い合っていらしたのよ。そのうち私共は寝てしまったから、何のことだったか分りません。けれど、それから二三日の間は、先生も奥様も黙りっきりで、一言《ひとこと》も口をお利きなさらないものだから、私共までほんとにびくびくしていましたわ。」
「それから?」
「それからって、それだけのことですよ。」
周平はぷいと立っていった。そんな話に好奇心を動かした自分自身が、変に不愉快になった。と共に、その不愉快さに対する反撥心が起ってきた。毒を以て毒を制したいような自棄気味になった。
彼は二階の書斎に上って、机や卓子や本箱の抽斗をかき廻した。もし横田の日記でもあったら、それを読むことによって、保子の日記を見出せない腹癒せをし、また、こんな所まで陥ってきた自分自身に返報をするつもりだった。
本箱の抽斗を探していると、丁寧に紙に包んだものが出て来た。中には、小形の洋罫紙が十枚ばかり、二つ折りにしてはいっていた。その一行を何気なく読んで、彼は危く声を立てようとした。それから、辛うじて驚きを押し鎮め、室の中を見廻し、抽斗を元のように閉め、洋罫紙を室の真中に持ち出して、その両面に細字で書いてあることを、彼は一心に読み始めた。
十五
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十月六日――俺は死を厭うものではない。然し好奇心によって死にたくはない。
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夜、〇・〇〇三に当る分量を服用している時、ふと〇・〇〇五の極量を越してみたらという気がした。次の瞬間には危いと思った。手先が怪しく震えた。そして厳密に分量を検査した。勿論千倍の溶液だから、少しの差は構わないようなものの、誤ってつまらない結果に陥りたくはない。
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十月七日――何という爽快な気持だろう! 陰鬱にぼやけていた世界が、俄に明るくなったのだ。凡てのものが輝いて見える。軒先に流れる日の光りが、それとはっきり見て取られるようだ。
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あの重苦しい幻影が消え失せたことは、俺にとって最も喜ばしいことなのだ。
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