けると、ふいに釣魚《つり》のことへはぐらかされてしまった。それはいつもの彼女の調子とは異っていた。周平は初めからのことを頭の中でくり返した。そしてるうちに、或る筋途が――段取りが――次第に見えてきた。用意して張られた罠だった。その下から、聡明敏感な彼女の眼が覗いていた。
 周平は保子から陥れられたのを感じた。彼女の意のままに操られた自分自身を認めた。然し彼はそれを別に怨みとはしなかった。寧ろ、彼女の前に赤裸な自分の心を投げ出し得なかったのが、後から考えると悲しかった。ただ彼が不満に思ったのは、彼女がそういう手段を用いたことだった。いつものように真正面からぶつかって来なかったことだった。そしてまた、なぜ彼女はそういう態度を取ったのか? という疑惑も生じてきた。その疑惑はやはり吉川のことの上に及んでいった。
 不満と疑惑とのうちから覗くと、彼女の心は益々捉え難い遠くへ離れ去っていくように思えた。自分一人迷霧の中に残されたような気がした。彼は気持が苛立ってくるのをどうすることも出来なかった。その苛立ちの念から、知らず識らず隆吉に対して更に冷淡になっていった。
 二三の質問に応じて形式だけの義務を尽すと、周平は残りの時間を利用してやろうという気も起さないで、疊の上にごろりと横たわった。室の窓から夾竹桃の梢越しに、狭い空が見えていた。雲の影も鳥の姿も宿さない静かな空だった。じっと眺めていると眼が疲れてきた。瞬きをして顔を横向けた。隆吉はやはり机の前に坐りながら、ぼんやり書物に眼を落していた。心では他のことを考えてるらしかった。それも、怠惰からではなくて、怜悧な頭の余裕からであった。どんなことを考えてるのだろう? そう思うと小憎らしくなった。
 隆吉は彼の顔をちらと見て、心持ち身体を押し進めてきた。
「井上さん、僕お父さんの夢を見たよ。」
「え、どんな夢?」と周平は云った。
「お父さんが宙に飛んでたの、真直に飛んでた。」
「それから?」
「それきり覚えていない。」
 周平はその眼をじっと見入った。そして云った。
「本当?」
 隆吉は眼をくるりと動かした。口を尖らし小鼻を脹らまして、泣き出しそうな顔をした。
「井上さんはいつでも、僕の云うことをなぜ嘘だと思うの。」
「嘘だと思ってやしない。」と周平は答えた。
「だって……。僕は嘘をついたことは一度もないんだのに……。」
「だから嘘だと思ってやしないよ。」
 二人はそれきり黙った。隆吉は机の方へ向き直って、書物をこそこそ弄りだした。暫くするとまた振り返った。然し周平の黙りこくってる様子を見て、再び机の方を向いた。周平が居る間は、することが無くても、兎に角勉強の時間ときめてるらしかった。それがまた周平には不快だった。いい加減辛抱した後、彼はぷいと立ち上った。
 然しその後で彼は、自分の態度を自ら責めた。横田ら二人の好意に報いるには、出来るだけ隆吉に親切を尽してやるべきだった。今の場合彼にとって、月々の二十円は非常に有難かったのである。

     十一

 漢口《はんこう》の水谷から送ってくる僅かな学費は、ともすると途切れがちだった。向うの店に行って働くことを断った後、そういう決心ならばといって無条件に恵んでくれる志だっただけに、こちらから催促するわけにはいかなかった。而も水谷は周平の遠縁に当るきりで直接の縁故がなかった。学費も、周平の保護者みたいな地位に立ってる野村の許へ送ってきて――銀行の関係から便利なせいもあったろうが――周平は野村の手から受取っていた。彼は初めからの行きがかり上、野村に金を借りることも、水谷に余分の請求をすることも、意地として出来なかった。郷里の自家の没落と共に、近しい親戚には多大の迷惑をかけてるので、其方へ縋る訳にもいかなかった。「一人でやっていく!」そう彼は公言したのだった。
 困る時には書物を売り払ったり、或は着物の包みを抱えて質屋へ行ったりして [#「行ったりして 」はママ]兎も角も一時の凌ぎをつけていた。然しそれも長くは続かなかった。やがて、書物は無くなり、着物は流れてしまった。下宿の払いもたまった。そして途方にくれてる所へ、横田の助けを得たのだった。その補助で漸く月々が越していけた。
 横田のことを思うのは、彼にとって力であった。更に、横田夫人――保子のことを思うのは、彼にとって慰安でもあり光明でもあった。彼は長らく休みがちだった大学へも、落着いて通えるようになった。
 それが、変に心が外れ出したのだった。また学校を休みがちになった。朝は遅くまで寝てることがあった。何をしても面白くなかった。勉強するのもつまらないような気がした。何を考えるともなくぼんやりしてると、いつのまにか保子の姿を思い浮べていた。次の瞬間には吉川の死のことを考えていた。そしてふと、隆吉が吉
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