ことだから、なお始末がいけないのよ。」そして保子はまた微笑んだ。「こないだ村田さんが来てね、小遣を少し借して下さいと云ったけれど、あんまり度々だから、無いって断ったのよ。すると私の顔をじっと見ていたが、何を云い出すかと思うと、奥さんは依怙贔屓《えこひいき》をしていけない、井上ばかり大事にして僕を疎外する、と云うんでしょう。だから私やっつけてやったのよ、井上さんは真面目な途を歩いてるけれど、あなたは不真面目だと。それでもとうとう小遣を持って行かれちゃったの。……あなたつまらないことを饒舌っちゃいけないわよ。村田さんもいい人だけれど、随分でたらめだから、うっかり信用出来ないし、いろんなことを饒舌れもしないわ。」
「それだけのことですか。」と周平は云った。
「まだ何かあると思って?」
そう反問されると、周平は返辞に迷った。最後の言葉が気にかかった。彼は保子の顔を眺めた。その口許の微笑が変に皮肉らしく、眼の光りが変に揶揄するように、彼には感じられた。彼はそういう風に保子から眺められるのがつらかった。凡てをぶちまけてしまおうかと思った。然しそれをじっと抑えて、漸くこれだけ云った。
「何かあるのなら、すっかり云って下さい。気持にこだわりが残るのは一番厭ですから。」
保子は黙っていた。美しい眉根を心もち上げて、眼をぱっちり見開いていた。周平は、その眼が自分の心に向けられてるのを感じた。彼はまた云った。
「何かいけないことがあったら云って下さい。私は奥さんから云われることなら本当の心で受けられる気がします。出来るだけ自分で自分を直したいんです。」
「じゃ何か困ることでもあるの。」
「え、私に?」
「ええ。」
「いいえ、何もありません。」と周平は答えた。
「それでは何か聞いたんでしょう。」
「いいえ。」と周平は答えた。
「では何か仕出来したの。」
「いいえ。」
「そんなら、何か気にかかることがあるのね。」
「いいえ。」と周平は答えた。
「おかしいわね。困ることも聞いたことも仕出来したことも気にかかることもないのなら、何もないじゃないの。嘘よ。何かあるんでしょう。隠さずに仰しゃいよ。」
周平は惘然とした。いつのまにか問う方が問われる形になっていた。彼はそれを元に戻そうとあせった。そして言葉を探してるうちに、保子から先を越されてしまった。
「あなたはまだいやに隠し立てをするのね。何にも隠さないという約束じゃなかったの。その気にかかることを云ってごらんなさいよ。」
周平は保子の眼の中を覗いたが、そのたじろぎもしない眼差しの前に、眼を外さざるを得なかった。自分の方が負だという気がした。そこからまた絶望的な勇気が出てきた。彼はぶしつけに云った。
「私はつまらないことで隆ちゃんをいじめたんです。」
「あ、あのことですか。」と保子は云った。「あたたも随分|大人《おとな》げないことをしたものね。でも私、初めはどうしたのかと思ったわ。あなたが帰った後で、隆吉がしくしく泣いてるんでしょう。いくら聞いても黙ってるから、何のことかと思うと、つまらないことじゃないの。可哀そうに、子供をいじめるのはお止しなさいよ。そんなに吉川さんの写真が見たいのなら、こんど私が借りてあげましょうか。」
「もういいんです。何だか気がさして、見てもつまりません。……初めは、隆ちゃんのお父さんだから是非見たいように思ったんですけれど……。」
「どうして?」
「どうしてって、ただ……何だか……私の好きな人のような気がしたんです。」と初めは口籠り終りは口早に周平は答えた。
「それだけ?」
「ええ。」
「ほんとに?」
「ほんとです。」
「そう。」と保子は云った。
二人は口を噤んだ。変に中途半端な気持だった。然し保子はもう何とも云い出さなかった。暫くすると、ふいに尋ねかけてきた。
「あなたは釣魚《つり》は好きですか。」
周平は今迄の気持が置きざりにせられたのを感じた。咄嗟に返辞が出来なかった。それを保子は構わず云い続けた。暑中になったら横田が釣魚《つり》に行くと云ってること、釣魚の面白みをさんざん聞かされたこと、どうやら自分にも面白そうに考えられてきたこと、それでも、「沢山釣れなければあんな詰らないものはないと云ったら、それはまだ本当の趣味を解せないからですって、」と彼女は結んだ。
周平はぼんやり聞いていた。まだ心が其処まで動いてゆかなかった。そしてほどよい時に、保子の側を逃げるようにして去った。
彼には保子の態度が腑に落ちなかった。彼女の話は、頭ばかりが大袈裟で尾《しっぽ》がすっと消えていた。村田のこともそうだった。写真のこともそうだった。そして両方とも、彼はすっぽかされてしまった。村田のことから妙に真剣になって尋ねだすと、いつのまにか主客転倒されてしまい、写真のことから少し深入しか
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