川と保子との子だったら……と空想した。
彼は自分で喫驚した。余りに馬鹿々々しかった。そしては、下らないことに頭を使うまいと努めた。けれども、意識して努めれば努めるほど、益々気持の上のこだわりが出来てきた。そして彼は、保子の温情を深く感謝し希求すると共に、一方では、保子の心に秘密な影を想像していった。それが自分でも妙に不安だった。
学校に出てもなんだかつまらなく、ノートを取ることにうんざりして、それかって友人との雑談にも気が進まなくて、彼は一人ぼんやり、池の縁の木蔭に屈み込むことが多かった。薄濁りのした水面には、朝日の光りが斜に落ちて、赤や黒の鯉の姿が、すーっと浮き出してはまた底の方へ消えていった。松を二三本のせた小鳥の影が、水の中二三尺位の深さかと思われる処に、影絵のように淡く映っていた。見るともなくそれに眼をつけている時、松の影がゆらゆらと動いて、油を流したように、保子の姿が水の面《おもて》に漂った。気がつくと、もうそれは消えていた。あたりがしいんとして、蝉の声が俄に耳につきだした。
彼は何だか気にかかった。保子を訪れてみたくなって、そのまま彼女の家の前まで行った。変に胸をどきつかせながら二三度家の前を通り越して、それから中にはいった。玄関にぼんやり立っていると、女中が出て来た。
「あら、井上さんじゃないの。お上りなさいな。お客様かと思った。」
彼はそう云う女中の後について奥へ通った。
保子は奥の室で、机の上に両肱を張ってもたれかかりながら、だらしない坐り方をしていた。周平がはいってゆくと、上半身だけで振り向いた。
「まあ喫驚したわ。」それから周平の顔を見つめた。「どうしたの、こんなに早くから。」
「だってもう十時じゃありませんか。」
「そんなになって?……でも、何か御用?」
周平は「いいえ。」と答えようとしたが、それを止して、咄嗟に思いついた。
「先生はお家《うち》ですか。書物を借りに来たんですが。」
「一寸出かけなすったけれど、じきにお帰りでしょう。でも、お急ぎなら持っていらっしゃいよ、私があとで云っとくから。」
「ええ。」と周平は答えたが、なかなか立ち上らなかった。
保子は妙に机の上をかばう様子だった。その方へ気を取られてるらしかった。それが周平の心を惹いた。彼は立ち上る風をして、その拍子に机の上を覗いた。
「あら見ちゃいやよ。」と保子は云った。
机の上には小形の原稿用紙を綴《と》じたのがのっていた。周平は眼を見張った。
「奥さんは小説を書くんですか。」
「まさか。」と云って保子は笑った。「これ私の日記帳よ。」
「日記をつけるんですか。」
「ええ。」そして保子は急に真面目になった。「日記をつけるのは、殊に女にはためになると横田が云うものだから、ためしにつけてるのよ。でも、人に見られると、思ったことが書けないから、ある時期までは横田にも見せないことにしてるわ。……随分面白いことがあってよ。内密《ないしょ》で一寸読んでみましょうか。」
「内密で読むったって、奥さんが御自分で書いたんでしょう。」
「ええ。だけど人に洩してはいけないわよ。」
「大丈夫ですよ。」
保子はいい加減の所を披いて読み始めた。
水島さんがいらっしゃる――(あなた水島さんを御存じね……ええ、画家よ)――水島さんがいらっしゃる。夕御飯を出す。お酒も出す。いろいろ面白い話をなさる。そのうちに、女がコケットリーを失うのは何時だと思う、と仰しゃる。さあ……と横田が考えてると、それは母親になって母親としての自覚を得る時からだ、とのお説。然し人妻になってからもだいぶ失うものではないかしら、と横田がいう。すると水島さんは、そんなことはない、子供のない細君は処女と同じ位にコケッティッシュだと仰しゃる。そして――(あら、大変なことが書いてあるわ)そして、君の細君もその例に洩れないんだと。すると横田が云うには、保子の態度はコケッティッシュだが、心はヒロイックだって。そうですかって水島さんが私にお聞きなさるので、私は、そのどちらでもない、フーリッシュでしょうよ、と答えてやった。それで大笑いをした。
読んでしまってから保子は、周平の顔を見て「どう?」というような眼付をした。周平は何と云っていいか分らなかった。頭では馬鹿々々しいと思いながら、心では真面目になっていた。
「も少し読んでみましょうか。それとも、もう聞きたくないの?」と保子は尋ねた。
「聞かして下さい。初めからすっかりでもよござんす。」と周平は答えた。
「慾ばってるわね。じゃあも一つきり。なるたけ長い所を読んでみましょう。」
そして彼女はぱらぱらと頁をめくった。
今日、隆吉が学校から帰ってきて、何だか考え込んでる様子。碌に口も利かないで悄れている。――(ああ、これはあなたの参考にもなること
前へ
次へ
全74ページ中16ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング