。」
周平は更に追窮してやりたかった。然し自分の大人《おとな》げないのを顧みて止した。そして、二人の前には三四十分の無駄な時間が残った。週に一時間ばかりとの約束だった。それは実際、保子が云ったように、ただ名目だけの家庭教授だった。
周平は勝手な図画や習字などで時間をつぶしたかった。然し隆吉はそれを好まなかった。いろんな話を聞きたがった。それをまた周平は好まなかった。じゃ歴史の詳しい話をしてほしい、と隆吉は云い出した。周平は時間つぶしに日本の神話を聞かしてやり始めていたが、それを続けるのもつまらなかった。ギリシャ神話なら興味もあったが、隆吉にはむずかしすぎるだろうと思った。……しまいには二人共黙り込んでしまった。退屈だった。
「散歩にでも行かない?」周平は云った。
「何処に?」隆吉は答え返して落着き払っていた。
周平はその顔をじっと見戍った[#「見戍った」は底本では「見戌った」]。広い高い額の工合が、変に老成じみていた。孤児だという感じがした。
「隆ちゃんは、」と周平は云い出した、「お父さんの顔を覚えているの。」
「覚えてはいないけれど、お祖母《ばあ》さんが写真を持っているから、よく知ってる。」と隆吉は答えた。
「お父さんの写真を!」
「ええ。死ぬ前に撮《と》ったんだって。」
「じゃあそれを僕に見せてくれない? お祖母さんから借りといて。ねえ、いいでしょう。お祖母さんは時々来るんでしょう。こん度の時頼んでおけば、その次の時には持って来て貰えるでしょう。」
その急き込んだ様子を隆吉はじっと見ていたが、それでも、写真を借りておこうと約束した。
「屹度ね!」と周平は念を押した。
九
周平にとって吉川は、保子や隆吉と自分との間に突然つっ立った人物だった。既に故人ではあるけれど、現在まで影を投げてる人物だった。その影のために、保子や隆吉に対する自分の気持が、妙に脅かされるのを彼は感じた。事実の真相を知ったら気持も落着くだろうと思ったけれど、村田の話以上に詳しい確かなことを、誰に聞く術もなかった。せめて吉川の写真でも見て、その顔貌《かおかたち》をはっきり頭に入れたなら、いくらか気持も安まりそうに思えた。その上、それは吉川に対する保子の本当の心を知る便りにもなりそうだった。知ってどうしようとの考えは更になかった。ただ知りたかったのである。――彼は吉川の写真を待った。
然し隆吉は、なかなかそれを見せてくれなかった。祖母がまだ来ない、というのが初めのうちの答えだった。しまいには、とても駄目だと答えた。
「どうして?」と周平は尋ねた。
「いくら探してもないんだって。」
「え、写真がないって!……亡くなる前に撮《と》ったのをお祖母さんが持ってると、隆ちゃんは云ったじゃないの。」
「でもお祖母さんは、いくら探しても見つからないんだって。井上さんに見せるのだからと云って頼んでも、持って来てくれないんだもの。何処かにしまい忘れたんだろうから、出て来たらすぐに持って来てあげるって、そう云ってたよ。」
嘘を云ってるな、と周平は思った。祖母が大事な息子の写真をしまい忘れる筈はなかった。何か理由があるに違いなかった。
「そしてお祖母さんは、別に何とも云わなかったの。」
「ええ。」
「そんな筈はない。何とか云ったでしょう。……誰にも云わないから、ねえ、お祖母さんは何と云ったの。」
「だって、何とも云わなかったんだもの。」
周平はじっとその頸を見つめた。小鼻の小さな高い鼻がつんと澄していた。考え深そうな凸額《おでこ》が黙々としていた。然しその下から覗いてる眼に、困ったような色が浮んでいた。いやに隠してるのだな、と周平は思った。
「隠したって駄目だよ、ちゃんと知ってるから。」と周平は云い出した。そして、悪い意味でその写真を見たがってるのではないこと、隆ちゃんのお父さんだから是非見たいような気がすること、お祖母《ばあ》さんに逢えたらじかに頼んでもいいこと、だから、変に隠されると気持が悪いこと、見せられない理由があるのならあるとはっきり云って貰いたいこと、そんな風に彼は云い進んだ。然し云ってるうちに、自分の方に或る疚しい点が感じられてきた。自ら気分が苛立ってきた。彼は一転して隆吉を攻撃しだした。嘘を云うのは一番悪い、お祖母さんが何か云ったのなら云ったと答えるがいい。どんなことだか云えないのなら強いて尋ねはしない、云ったのを云わないと答えるのは悪いことだ、……などと説き立てた。と彼ははっとして口を噤んだ。隆吉はいつのまにかしくしく泣きだしていた。
身体を軽く机で支え顔を伏せて、肩を顫わせながらすすりあげていた。周平は初めの驚きが鎮まると惘然とした。なぜ泣くのか訳が分らなかった。
隆吉は長く泣き止まなかった。
「どうしたの。え、なぜ泣くんです?
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