るい光りがかすかに洩れていた。
 それらを一目見やって、彼は足早に通りすぎた。胸が怪しく震えていた。何のために蓬莱亭の前までやって来たのか、自分でも分らなかった。
 然し間もなく、知らず識らず胸に企《たくら》んでいたことが、はっきり頭に上ってきた。彼は竹内を殴りつけるつもりだった。
 噂は竹内から出たことに違いなかった。お清とのことや其他のことを考え合わせると、その推定は殆んど確実とも云ってよかった。そしてもはや、竹内を殴りつけることより外には、他に途がないように感じられた。噂が親友たる村田の耳にまで達してる以上は、お清へは勿論、横田や保子へも伝わってるかも知れなかった。今伝わっていなくても、やがて伝わるに違いなかった。そしてそれは、彼にとっては致命的なことだった。凡てを汚辱することだった。これまでの内心の苦闘を無にしてしまうことだった。而もその噂は、お清との単なるいきさつの腹愈せとして、竹内が勝手に捏造し流布したものだとすれば、殴りつけてもまだ足りなかった。
 彼はまた足を返して、蓬莱亭の前へ忍び寄った。閉め切られてる扉から耳を澄すと、中はしいんとして、何の物音も話声も聞えなかった。然し火《あか》りが洩れてる所をみると、或はまだ竹内が居るかも知れなかった。
 彼は思案に迷って、二三度その前を往き来した。街路は静まり返って、深い夜が立ち罩めていた。
 いつまで待っていても仕方がなかった。遂に彼は扉の前にじっと佇んだ。暫く耳を傾けた後、指先で軽く押してみた。強い抵抗が感ぜられて、もう締りがしてあるらしかった。それでも、彼はなお内の気配を窺った。奥の方に、何やら物音と笑声とが聞えるようだった。彼は更に耳を澄した。
 その時、隣家との間にある狭い路次から、俄に人の足音が起った。彼は家の内部へばかり注意を向けていたので、それが余りに突然で不意だった。気が付いた時はもう、足早な下駄の音が路次から出て来かかっていた。彼は駭然として扉から身を退いた。そして何気ない風を装いながら、。強いてゆっくり歩き出した。所が、すぐ前は四辻で、明るい光りが射していた。身を隠す物影がなかった。咄嗟に彼は、蓬莱亭と反対の側の軒下の暗がりに佇んで、袂から煙草を探ってマッチをすった。それが却っていけなかった。煙草に火をつけてマッチの棒を投げ捨てる拍子に、一寸後ろを顧みると、すぐ其処に、一人の女が立っていた。薄色の肩掛の胸にコートの両袖を合して、真白な顔をつき出していた。お清だった。
 周平は惘然として、つっ立ったまま動けなかった。数秒……そして彼女は一歩進んできた。
「井上さんじゃないの。」
 落着いた低い声だった。
「こんなに遅く……。」
 聞くように云いかけて、どうしたの? と彼に眼付で尋ねながら、彼女は歩み寄ってきた。彼はその顔をじっと見つめた。すると、彼女はちらと大きな瞬きをして、上目がちに蓬莱亭の方をさし示しながら、軽く彼の袂を捉えて歩き出した。彼は譯が分らないで、黙ってその後に随った。頭の中がもやもやとして、夢をみてるような気持になった。
 お清は薄暗い横町の方へ曲り込んでいった。暫くしてから、ふいに彼の方へ眼を挙げた。
「今時分どうしたのよ。今晩早く帰っておいて……。」
「急に用が出来たんだ。」と周平は云った。
「誰に?」
 周平は暗がりの中に眼を見据えて、何とも答えなかった。
「誰かを待ち合してたんでしょう。」
 周平は黙っていた。
「誰《だあれ》? 仰しゃいよ。」
 甘えたような声の調子だった。周平は急に苛立ってきた。彼女と出逢ったためにぼやけた頭が、また強く働きだしてきた。彼は吐き出すようにして云った。
「竹内を探しに来たんだ。」
「え、竹内さんを!」
「竹内は何時頃帰ったんだい。」
「もうだいぶ前よ。」
「運のいい奴だな。」
「竹内さんがどうしたというの。」
「僕は竹内を殴ってやるんだ。」
「え!」
 お清は足を止めて、喫驚《びっくり》した眼付で彼の顔を眺めた。彼はそれに構わず、ずんずん歩いて行った。
 暫くすると、彼女は足を早めて寄り添ってきた。
「本当に殴るつもりなの?」
「本当さ。」
 と答えたが、周平はふと気懸りになって、彼女の方を顧みた。小さく結んだ口と一杯に見開いた不安げな眼とが、彼に或る信頼の念を与えた。彼はしみじみとした調子で云った。
「僕はもう何もかも駄目になっちゃった。」
「どうして?」
 彼女はコートの下から、そっと彼の袖を捉えてきた。
 其儘二人は暫く黙って歩いた。
「ねえ、どういうこと?」とお清はまた尋ねてきた。
 それがぴったり周平の呼吸と合った。彼は即座に凡てをぶちまけた。
「我慢出来ない噂なんだ。僕が横田さんの奥さんと君とに同時に情交を結んで、それでしゃあしゃあとしてるというんだ。その噂が皆の間に広まってるのを
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