、僕もよく知っている。それから、横田さんの奥さんとの関係も、僕は或る点まで理解してるつもりだ。然し、それが両方共、肉体的関係に、或はそれに近いものになってるとは、夢にも思わなかった。」
周平は危く叫び声を立てようとした。がそれを強いて抑えつけた。村田は云い続けていた。
「僕は君を信じていたんだ。お清とのことは単なる一時の遊戯に過ぎないし、奥さんとのことは単なる親しみに過ぎないと、あくまで信じていた。それが……噂の通りだと君自身で肯定するなら、僕はもう何にも云わない。お清とのことだけならまだいい。然し奥さんとのことは……それも純粋な愛ならまだ許せる点もあるが、一方にお清という者がありながら、而も非常な恩を受けてる奥さんと……僕は考えても恐ろしい気がする。よくも君は図々しくそんなことが出来たもんだ。自分で恐ろしいとは思わないのか。」
然し周平はもう、村田の言葉に耳を貸してはいなかった。思いもかけない保子との噂に心が顛倒して、それを抑えれば抑えるほど、呪わしい憤りが湧き上ってきた。保子に道ならぬ恋をしてるという意識が、更にそれを煽り立てた。時々耳に響く村田の鋭い言葉が、その気持に釘を打ち込んできた。
彼は敵意ある眼で村田の顔を睥みつけた。弁解するよりも突っかかっていった。
「卑しい想像は止すがいい。魂の腐った奴のすることだ。」
「何が卑しい想像だ!」と村田は叫んだ。彼もいつになく奮激していた、「自分のことを考えてみろ。」
その言葉が周平の胸にぐっと来た。彼は立ち上った。
「君こそ自分のことを考えてみろ。下らない噂の上に卑しい想像を逞うするのが、自分で恥しくないのか。」
村田は熱っぽい眼付で見上げながら、一寸唇を震わしたが、それを周平は咄嗟に、上から押被《おっかぶ》せた。
「勝手に僕のことをふれ歩くがいい。よかったら横田さんに告口でも……。」
云いかけて彼はぷつりと言葉を切った。恐ろしい閃きが頭を過《よ》ぎった。村田の熱っぽい鋭い眼付が俄に不安になった。
「下らない!」
捨鉢な気持で云い捨てて、彼はぷいと立ち去った。
「君は自分で肯定して、それを……。」
憤りと叱責との調子の言葉を、彼は後ろに聞き捨てながら、振り返りもしないで出て行った。
が、扉の所で彼は一寸足を止めた。何だか変だった。然し、村田が追っかけてくる気配《けはい》はなかった。しいんとしていた。誰とも知れない無数の眼から見られてる気がした。彼は逃げるように飛び出した。
寒い空気がひしひしと四方から迫ってきた。彼は肩をすぼめて当もなく歩きだした。頭の中の混乱がそのまま静まり返った。種々のことがぽつりぽつりと分ってきた。電柱に突き当りかけて身を交した時、眼に涙が溢れてるのに気づいた。気づくと同時に、はらはらと頬に流れた。然し彼はそれを拭おうともせずに、なお歩き続けた。立ち止るのが恐ろしかった。
四十
周平は、脱することの出来ない罠に囚えられてる自分の姿を、まざまざと見るような気がした。噂が単にお清とのことだけなら、笑って済すことが出来た。然し、保子とのことは堪えられなかった。保子とお清と二人一緒のことは、更に堪えられなかった。全く無根の噂ならば、まだ平然として居れるわけだった。けれどもそれは、たとい事実としては無根であっても、彼の心の中のこととしては、無下《むげ》に否定出来ないものがあった。
彼はも一度、自分の心の中を覗き込んだ。――お清の方は、初め一種の好奇心を以て近づいていったのだったが、疑惑が消えると共に、もはや其処には愛慾しか残っていなかった。自分の踏み出し方によって、どうにでもなりそうだった。――保子の方は、寂寞たる苦しい生活のうちに、自分が知らず識らず縋りついていった唯一の慰安だった。涙ぐましいしみじみとした感情で自分を包んでくれる、大きな欽慕の対象だった。強い愛の焔が時々閃いたけれど、それは何処までも至純だった。――が、その二つが一つに綯われて、深い渦巻きを拵えてしまった。どうしたらいいか、自分でも分らなくなっていたのだ。暗澹たる苦闘を続けていたのだ。
それを……。
彼は云い知れぬ苛立ちを感じた。復讐とも反抗ともつかない感情が、心の底から湧き上ってきた。このままでは済まされなかった。何物かにぶつかっていって、思うさま殴りつけ蹴飛し踏みにじりたかった。
彼は長い間、何処を通ってるかも自ら知らないで歩き続けた。寒さが、ひしひしと迫ってくるのが、なお彼の気持を悲痛な色に染めていった。
ふと気が付くと、彼は驚いて足を止めた。見馴れた建物がすぐ前に在った。塔のような三階が、附近の軒並から高く夜の空に聳えていた。二階の窓には褐色の窓掛が引かれて、灯火は消えていた。然し、内側に白い布を垂れた入口の扉には、ぴたりと閉ってる隙間から、明
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