やってくると、無遠慮にその手を取って引寄せながら云った。
「まあここに坐れよ」そしてちらと周平の方を顧みた。「井上君がいやに黙ってるから、君がその代りをするさ。」
「黙ってる人があって丁度いいわ。先刻からあなた一人で皆の分を饒舌《しゃべ》ってるじゃないの。」
 彼女はぐるりと卓子を廻って、煖爐の火を見る風をしながら周平の側に一寸|屈《かが》んで、それから向うへ行った。
 然し周平は彼女の方へ眼をやりもしなかった。不快の念が次第に胸へたまってきていた。気持の上のこだわりを自分でどうすることも出来なかった。我慢すればするほど益々悪い結果になりそうだった。
 彼は立ち上って、思い切って伸びをしてみた。
「すっかり暖くなっちゃった。」と彼は云った。「今晩少し用があるから、僕はこれで失敬するよ。」
「もう行くのか。」と竹内が、軽蔑的に口を尖らして彼の顔を見上げた。「君とはだいぶ暫くぶりだったね。……おい、水曜日にも横田さんの所へ少し来いよ。勿論君は、始終あの家へは行ってるだろうが。」
 それを黙って見返した自分の眼付が、殆んど敵意に近い色を帯びてるのを、周平は自ら感じた。そして軽く頭を下げながらつと立ち去った。
 扉を押して外に出ると、ぞっと寒気《さむけ》がした。其処へ、後から村田が追っかけてきた。
「僕も帰るから、其処まで一緒に行こう。」
 周平は急に涙ぐましい心になって、彼の手を握りしめようとしたが、思い返してそれを止した。自分自身に対して腹が立った。
 乾ききった冷たい空気が、風とも云えない風をなして、襟の裾の間から吹き込んできた。街灯の光りが冴えきってるのに、物の隅々が妙に薄暗かった。
「不愉快な奴だな。」と村田は呟いた。
 竹内のことだと分っていたが、周平は何とも云わなかった。下宿の方へ足を向けると、村田はなお別れないでついて来た。可なり暫くたってから、彼は突然云った。
「何処かへ寄ってゆかないか。」
 眼を地面に落したままで、独語のような調子だった。いつもと様子が異っていた。周平は横目でじろりと見て、すぐに応じた。
「寄ってもいい。」
 二人はそれきり黙って歩いた。然し云い合したように、別の心安いカフェーの前にいつしか出てしまった。
「まあ、暫くぶりね。」
 顔馴染の女中にそう云われて、周平はただ苦笑した。お清の許へ行きつけてから、いつの間にか他の場所へは足が遠くなっていた。そのことが気持にこびりついてきた。
 隅っこの小さな卓子を選んだ。客は込んでいなかった。二人の様子を見て、女中も遠慮してか寄って来なかった。
 熱い珈琲を飲んでるうちに、周平は突然不安を覚えてきた。何か話があるのを云い出しかねてるような村田の様子だった。それが可なり重大なことらしかった。予め覚悟を強いられる気がした。彼はぐっと腹を据えて、がちゃりと珈琲皿を置いた。その音に室の隅から彼の方へ転じてきた村田の眼へ、何だい? と眼付で尋ねかけた。
 村田は初めて我に返ったかのように、珈琲を一口飲み、煙草に火をつけた。が、言葉は直截だった。
「君は変な噂があるのを知ってるか。」
「誰の?」
「君自身のさ。」
 周平は冷笑的に唇を歪めた。お清のことだなと思った。村田までそんなことを気にしてるのが可笑しかった。
「知ってるよ。」と彼は云った。
「それで何とも思わないのか。」
「別に何とも思わないね。」
「じゃあ、あの噂は本当なのか。」
「さあ、本当のような嘘のような……。だが余り下らないことじゃないか。」
 周平が落着いてゆくに反して、村田は妙に苛立っていった。いつもの好奇心からではなく、真剣な光りで眼を輝かせながら、冷たく引緊った顔をして疊みかけてきた。
「本当なのか。」
「本当かも知れないね。」
 村田は深く息をしたが、急に激した調子になった。
「それで君は済むと思うのか。……僕はこれまで君の弁護をし続けてきた。然し君自身が余りしゃあしゃあとしてるから、今晩は思い切って君に云ってやるつもりになったんだ。平素は僕も随分でたらめだが、君みたいな不道徳なことはしない。少しは感恩ということを知るがいい。自分の愛……愛とも僕は云わさない、慾望なんだ……その慾望を満足させるために、恩になってる人達の生活に泥を塗って、それでいいと思うのか。」
 周平は暫し呆気《あっけ》にとられた。が俄にぎくりとした。保子のことが頭の中に閃いた。それをじっと押えつけて、静かに云った。
「何のことだか僕には分らない。具体的にはっきり云えよ。」
「白ばっくれるなら云ってきかしてやる。」
 周平は眼を据えて次の言葉を待った。
「僕はその噂を聞いた時、初め自分の耳が信じられなかった。余りにひどい破廉恥な行いだ。」そして村田は声を低めたが、調子は一層鋭くなった。「君がお清と或る種の親しい関係に在ることは
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