、僕は今晩初めて知った。竹内の中傷に違いないんだ。」
「まあ、奥さんと私とに?」
「そうさ。余りに人を侮辱した噂だ。」
 お清は暫く何やら考え込んでいたが、やがて低く呟いた。
「何だか変な話ね。」
「何が?」
「その奥さんとあなたとの間が怪しいということは、聞いていたけれど……。」
「竹内からだろう。」
「ええ。……でも、あなたは本当にその奥さんと何でもないの?」
「何でもないさ。奥さんの方には親切きりだし、僕の方にはただ感謝きりなんだ。その噂を聞いては、僕はもう奥さんに顔が合せられない。その上、君と奥さんとを同時に……考えても堪らないことだ。」
「だけど、」とお清は落着いた声で云った、「その噂は嘘だとしても、世の中にはそんな場合だってあるわ。」
「どんな場合が?」
「一人の女を想ってながら他の女と関係するような……。」
 周平はぎくりとしたが、それが我ながら腹立たしかった。きっぱり云ってのけた。
「そんな場合のことを云ってるんじゃない。僕は自分のことを云ってるんだ。」
「じゃあ、噂は噂としておけばいいじゃないの。」
「噂にもよるよ。」
「私だったら噂だけなら、どんなことを云われようと平気よ。やきもきしたって噂が消えるわけじゃないから。」
 周平は彼女の顔を眺めた。彼女は薄ら笑いに似た影を口元に湛えながら、何かを考え込んでるらしく眼を見据えていた。彼は何故ともなく不安になった。すたすた歩きだした。彼女も彼と並んでついて来た。いつまでも黙っていた。
 当もなく裏通りを歩き廻ってるうち、ふいに電車通りへ出た。人影も電車の響きもなかった。がらんと静まり返ってる真直な通りに、街灯の光りだけが淋しく並んでいた。周平は急に立ち止った。種々な思いがすーっと何処かへ消えて、盲いたような気持になった。何のために夜更けの街路をお清と一緒に歩き廻ってたか、譯が分らなかった。
「もう何時《なんじ》でしょう。」とお清は呟いた。
 二人はぼんやり顔を見合って佇んだ。謎のような気持が取残されていた。と、お清は俄に彼の眼の中を覗き込んできた。
「あなたはこれから下宿へ帰るつもりなの?」
 周平はまだぼんやりしていた。
「仕様がないわ、こんなに遅くなって。私の家まで送って来て下さらない?」
 周平は機械的に首肯《うなず》いた。どうしようという意志もなければ、どうしていいかも分らなかった。また、それを考えもしなかった。
 二人は水道橋へ出た。掘割の水が黒く淀んで、冷かな火影がちらちら映《うつ》っていた。河岸《かし》通りは暴風に吹き清められたように、物影もなく広々と而も薄暗く続いていた。方向の分らない寒い風が寄せて来た。周平は身を震わした。外套も襟巻もないみすぼらしい自分の姿が、初めて惨めに顧みられた。
「おう寒い。」
 お清は独語のように呟いて、つと身を寄せてきたが、彼の背へ手を廻して、肩掛を半分ふわりと投げかけた。彼は懐から手を出して、その端を胸に押えながら肩をすぼめた。もう何物にも逆《さから》いたくなく、何事も考えたくなかった。
 砲兵工廠の石塀に沿って暫く歩いた後、お清は肩掛の中から突然云った。
「井上さん、あなたその奥さんと何でもないというのは、全く本当なの?」
 低い声ではあったが真剣な調子だった。然し周平はそれに心が向いていなかった。一寸間を置いてから事もなげに答えた。
「何でもないよ。」
「でも、心ではその奥さんのことを想ってるんでしょう。」
「想ってやしないよ。」
 それから二十歩ばかりして、彼女はまた云った。
「全く何でもないの!」
「ああ。」と周平は答えた。
「嘘じゃないのね。」
「本当だよ。」
 お清は一寸肩を震わした。周平は変な気がした。彼女がいやに執拗なこだわり方をしてることが、彼の心に或る冷たいものを与えた。彼は振り向いて彼女の顔を見ようとしたが、すぐ側に彼女の息を感じて、頭を動かすことが出来なかった。懐の左手をそっと出して、彼女の腕を抱えた。然し心は少しも熱して来なかった。彼女の態度も冷たかった。
 雲の切れてる西の空に、淡い星影が二つ三つ見えていた。周平はそれに眼を据えて歩いた。堪らなく淋しくなった。心の拠り所が分らなかった。保子のこともお清のことも夢のようだった。見知らぬ女と歩いてるような気がした。組み合してる腕と腕との接触や、着物越しに感じられる厚ぼったい肉附や、頬に触れる髪の毛や、肩掛の中で交る互の呼吸や、仄かな化粧の香りなどが、息苦しい感情を唆《そそ》りはしたが、それでいて妙に気持のうつらない冷かさがあった。彼は云い知れぬ佗しい心地になって、肩掛の中に頬を埋めた。軽い刺戟を含んだ柔かな毛糸の感触が、しみじみと胸にこたえた。肩掛の端についてる毛糸の玉を、掌にじっと握りしめた。
 飯田橋で、支那饂飩屋の淋しいカンテラの光りが見
前へ 次へ
全74ページ中66ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング