あった。それは大抵橋本だった。
それらのことを聞くと、周平は昂然と頭をもたげた。たとい悪意からでないにしろ、一種の好奇心から彼等が煽《おだ》ててることを、周平はよく見て取っていた。そして、その底にはまだ他に何かあることも、よく感づいていた。然し、もう弁解や穿鑿をすべき時ではなかった。凡てを盲目的に踏みにじってゆく方が、最も近途らしく思われた。何処に出る近途かということは分らなかったが、ただそうすることによって、最も早く何処かに出られそうな気がした。
濛々と煙草の煙が立罩めてる階下の広間で、煖爐の方へ足先を差出しながら、周平は一人黙りこくって、勧められる杯だけを、片端から空《あ》けていった。其処へよくお清は割り込んできた。
「井上さん一人を酔わしてどうするつもりなの。皆でよってたかって、可哀そうだわ。」
「ようよう……その通り、だから君が少し助けてやるさ。」
「ええ、いくらでも私が引受けてやるわ。」
そして彼女は、周平の前にある杯を一つぐっと干したが、それからまたぷいと向うへ行ってしまった。
「おい、井上、黙ってるって奴があるか。何とか感謝しろよ。」
周平はきょとんとした眼を挙げて、皆を見渡した。彼等の顔が馬鹿げて見えた。彼は吐き出すように云った。
「僕の知ったことじゃないさ。」
「なんて、澄してる所を、お清ちゃんに見せたいね。」
だが、お清は向うの隅に立って、周平の方へちらと目配《めくば》せをしていた。周平も大胆に目配せを返した。彼女は水を持ってきてくれた。煖爐にあたる真似をして、肩を一寸聳かしてみせた。その眼に、彼は眼付で微笑んでみせた。彼女は煙草を一本取って、一寸吹かしてから、おお辛《から》いと云いながら持て余す様子をした。それを彼は引受けて自分で吸った。立去る時彼女は一寸彼の袖を引いた。もう酒を止せという相図だった。それでも彼は皆からなお勧められると、じろりと横目で、向うに居るお清の顔を見た。お清は睥むような眼付をした。彼は口を尖らしながら睥み返した。そして杯を手にした。
そういうことが――二人差向いでいる時には妙にぎごちなく思われることが、大勢の面前では、何のこだわりもなく敏活に相通ずるのであった。そして彼は、其処を出る時には可なり酔っ払っていた。足がふらふらしていた。
「危《あぶな》いわ。気をおつけなさいよ。」
口早に囁いたお清の言葉が、長く彼の耳に残っていた。彼は皆から一二歩後れがちに足を運びながら、寒い夜の空気に頭をさらして、云い知れぬ悲壮な気持になっていった。我知らずお清のことを思っているのが、いつしか保子のことに変りがちだった。しまいにはその二つが一緒になって、彼の眼の前で渦を巻いた。
三十八
悪夢に似た呪わしい気持だった。周平は自分の心の向う所に迷った。そしてその昏迷のうちに、半ば自ら進んで、捨鉢に踏み出して行こうとした。然し、昼の明るみは彼を引止めてくれた。十一月から十二月の初めにかけて、わりに暖かい晴々とした日が続いた。高く冴えきってる空が、木々の梢や屋根に流れる黄色い日の光りが、彼の心を冷かに醒めさした。彼は涙ぐましいほど引き緊《しま》った心で、而し、救いの手を待つような落着いた心で、毎週月曜日と、それから他の日にも時々、横田の家へ行った。
保子は日当りのいい縁側近くで、雑誌を読んでいたり、正月のための縫物をしていたりした。周平はその方へ一寸挨拶をしたきりで、黙って火鉢の上にかじりついた。火箸の先で灰の中をかき廻しながら、身をも心をも彼女の前に投げ出したような気持になっていた。
「井上さん、」と保子は静かな声で云った、「あなたくらい寒がりはないわよ。いつも火鉢にかじりついていて、そんなに寒いんですか。」
「ええ。私は寒さが一番厭なんです。」
「そう。じゃあ今に火燵を拵えてあげるわ。」
周平は顔を挙げて、針の手先から眼を離さないでいる彼女の方を眺めた。化粧水と水白粉《みずおしろい》とだけを薄《うっ》すらと刷いた横顔が、神々しいほど淋しく見えた。その彼女を前にして、火燵の中に蹲りながらひそかに涙を流してる自分の姿が、想像のうちに浮んできた。
「あなたは冬の休みをどうするつもりなの。」
周平はその言葉を聴きもらした。黙ってると、彼女は初めて顔を挙げて彼の方を見た。
「冬休みに旅でもするの。」
「いいえ」と周平は答えた。「金がないから東京を動けやしないんです。」
「無いからというより、無くなしたからでしょう、余り勝手な真似をして。」
周平はぎくりとした。何とか答えようと思ったが、彼女からじっと見つめられると、心の底まで見透される気がして、顔を伏せた。お清とのことも知られてるに違いなかった。然し知られても構わないと思った。愈々の時には、一切を告白して彼女の前にさらけ出してや
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