らなかった。而もお清は、彼から一歩ふみ出しさえすれば、彼の手中に身を託してきそうだった。
 彼は抗し難い怪しい誘惑を俄に感じだした。その誘惑の下から、保子の面影がじっと覗き出していた。保子なら……と思うことが、更に感傷的に彼の心をお清の方へ惹きつけた。その下からまた、保子の面影が浮び上ってきた。
 彼は堪らない気持になって、冷たい薄い布団の中に頭まですっぽりもぐり込んだ。息苦しくて眠れなかった。夜着の襟から顔を出すと、電灯の光が眩しかった。起き上って室の中を真暗にした。廊下の薄ら明りに、障子の紙がぼーっと仄白く浮出した。彼はそれから眼を外らして、真暗な中を見つめた。光りの中に出ることも眼をつぶることも、共に恐ろしいような気がした。自然に眠るまで、ただ闇の中に眼を見開いていたかった。

     三十七

 周平が夜遅くお清を連れて歩いてたということが、間もなく友人間に知れ渡ってしまった。それを最初周平の耳に伝えたのは、何事にも差出口をして親切振った態度を見せる、橋本という背の低い男であった。
 ノートの包を抱えて、弱い日の光りが差してる大学前の通りを、久し振で通っていると、向うから来る橋本にばったり出逢った。
「やあ、珍らしいね、今日は学校に出たのか」と足を止めて橋本は云った。
「出るには出たが、面白くないから帰るんだ」と周平は答えた。
 そして彼は、そのまま橋本と別れるつもりで、すたすた歩きだした。四五歩行くと、後から橋本の声がした。
「それは、学校より蓬莱亭の方が面白いにきまってるさ。」
 周平は驚いて振り返った。橋本は微笑みながらついて来ていた。
「皆が君の腕前に感心してたぜ。あのしたたか者のお清を手に入れようとは、誰も思わなかったからね。……然し、注意しなけりゃいけないぜ。お清一人ならいいけれど……。」
「何だい?」
「いや……まあいいさ。しっかりやり給え。万一の場合には僕も力を添えてやるよ。なあに、若い者の特権だからね」
 周平はその顔を眺めたが、言葉からと同じく、何の意味をも掴むことが出来なかった。然し深く尋ねたくもなかった。
「今日は一寸急ぐから、何れまた逢おう。」
 面喰ったような瞬きをしてる橋本を其処に残して、彼はぷいと立ち去った。
 つまらないおせっかいを出しやがる、と彼は忌々《いまいま》しげに思ったが、その後で、橋本の言葉が妙に気になってきた。単にお清のことばかりでなく、その底にまだ何かありそうな調子だった。けれど、いくら考えても思い当る事柄はなかった。ただ保子とのことが一寸頭に浮んだけれど、それは誰にも知られる筈がなかった。
 皆がどういう噂をしてるか、その底まで彼はつきとめたかった。然し、よく一緒に酒を飲んだりなんかしていても、心を許せる親しい友は村田一人きりだった。といって、わざわざ村田に尋ねるのも業腹《ごうはら》だった。
 なにそのうちには分る、と彼はしまいに投げだしてしまった。そしては、却て反撥的な気持になって、時々蓬莱亭へ行ってみた。然し、三階へはもう上らなかった。お清に対しても自分自身の心に対しても、変に憚られるものがあった。
 室の隅っこの小さな卓子に就いて、ぼんやり考え込んでると、お清は時々やって来た。彼女の様子は前と少しも変らなかった。ただ一種の親しみを見せて、低い声で囁やくように云った。
「あれから竹内さんがさっぱり来なくなったわ。少し薬が利《き》きすぎたようよ。」
 周平が黙ってその顔を見ると、彼女も笑みを含んだ眼付で見返してきた。
「あなたはこの頃何を考え込んでるの。気にかかることでもあって?」
「何にもありはしない。ただ変に気がふさいでいけないんだ。……それで、あの陰気な三階へはもう上らないことにしたよ。」
「そう。此処の方がいいわね。……そのうちまた何処かへ行きましょうか。」
「ああ。」
「私いい折をねらってるわ。」
 そして彼女はじっと彼の顔を見つめた。彼はその顔を外らさなかった。変な気持だった。暴風雨《あらし》の後の静けさに似た一種の親しみが、しみじみと彼を包んでいった。その下から強い慾望が頭をもたげかけるのを、彼は強いて抑えつけた。そしてぽかんとした気分になって、美しい彼女の眼をぼんやり眺めるのだった。
 そして、お清に対するそういう親しみは、二人差向いでいる時よりも、大勢の中に居る時の方が、更に微妙な刺激を彼の心に伝えた。
 周平とお清との噂が立ってから、周平の友人等は、多く蓬莱亭へ集るようになってきた。周平は気が進まない時にでも、または金に困ってる時にでも、屡々一緒に引取ってゆかれた。
「軍資金は僕達が調達するからしっかりやり給え。」などと云って、公然と唆《そその》かす者さえあった。
「だが、いい加減にしといた方が君のためかも知れないぜ。」と忠告めいたことを云う者も
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