その時彼女は初めて彼に唇を許した。……が、余りに冷かな無感心な態度だった。一寸閉じてまた開いた眼と、濡れた海綿にも似た一種のはがゆい触感とが、彼がその咄嗟に感じた全部だった。彼は心の底から冷たくなっていった。黙って歩き出した。彼女も黙ってついてきた。
 狭い横町をぬけて、電車通りへ出ようとする時、彼女は云った。
「もう何時でしょう。」
 彼は返辞をしなかった。
「帰りましょうか。」
「ああ。」と彼は機械的に答えた。
 街灯の光りの中に出て、彼女はじっと彼の顔を眺めた。彼は顔を挙げなかった。
「私一寸買っていきたいものがあるから、一緒に来て頂戴よ」
 彼は広小路の角までついて行き、洋菓子屋の前で暫く待たされた。それから、牛込まで帰るのだという彼女と、なおお茶ノ水のあたりまで歩くことにして、薄暗い通りを、斜に順天堂の方面へつきぬけていった。
 彼女は手の菓子折をぶらぶらさしながら、いろんなことを饒舌《しゃべ》りだした。いつも一人でやって来て、黙って強い洋酒を飲んでゆく青年があったが、それが自殺してしまったこと、或る女中が人の妾になって、着飾った鷹揚な態度で遊びに来たので、盛んに皮肉を浴せてやったが、一向通じなかったこと、お主婦さんはいつもあんな仏頂顔《ぶっちょうづら》をしているけれど、相当の家柄だったのが零落して苦労してきた人だけに、非常に思いやりがあって、自分のような我儘者にも種々親切にしてくれること……など。然し彼女は、自分の身の上に関することは少しも話さなかった。
 周平はそれらの話をいい加減に聞き流しながら、心あってかなしにかそういう態度をしてる彼女に対して、一種の憤懣を覚えてきた。それが一転して、このまま彼女を手離したくない気持に陥っていった。然し今更どうしていいか分らなかった。苛ら苛らしてるうちに、順天堂の前まで来てしまった。
 彼女はぴたりと足を止めた。
「私あなたの下宿の前まで送ってゆくわ。」
 その眼を彼はじっと覗き込んだ。
「ねえ!」
 彼は危く我を忘れかけようとしたのを、強いて堪《こら》えた。
「いけないよ」
「そう。じゃあ蓬莱亭でね……。」云いさして彼女は帯の間から彼の金入を取り出した。「あの時預ったもの、お返ししとくわ。空っぽかも知れないわよ。」
 差出された金入を受取ると、彼は自分でも訳の分らない感情に駆られて、眼に涙がにじみ出てきた。が、その間に彼女は身を引いて、停留場の方へ歩き出した。
 電車の上から彼女が、堅く引緊めた頬に微笑を浮べて、伏目がちにこちらを透し見やった時、彼は振りもぎるような気持で、つと歩き出した。彼女を乗せた電車が側を走り過ぎると、凡てがしいんとなった。
 彼は真直に下宿の方へ帰っていった。早く身を休息《やすらい》のうちに横たえたかった。もう何にも考えたくなかった。
 星の光りの淡い寂しい空の下に、掘割に沿った崖道が先低く続いていて、その向うにぽっと明るい広辻の見えるのが、却って佗しい気分を唆った。首垂れながら歩いていると、何処からかまぐれ犬が出てきて、裾のあたりをうそうそ嗅ぎながらつけてきた。彼はそれをやり過しておいて、ふいと横町へ外れた。暫くして振り返ってみた。まばらな軒灯の光りが冷たく縮こまって見える、薄暗い夜更け通りには、生き物の影は一つも見えなかった。彼は不気味な慴えを感じて足を早めた。
 下宿へ帰って自分の室にはいると、みすぼらしい室の有様が、ぴたりと心に映《うつ》ってきた。彼は俄に寒さを。覚えて、両手を胸に押しあてながら震えた。その時、懐に押し込んでる金入を着物越しに感じて、それを机の上に抛り出すつもりで、懐から引出して、何の気もなく一寸開いてみた。……中には紙幣が十円と五円と二枚はいっていた。その朝野村から借りてきたままのものだった。
 彼は惘然と考え込んだ。お清が何のつもりでそういうことをしたのか、彼には合点がゆかなかった。然し兎に角心あってしたことには違いなかった。彼女は細かなのを――二三円だけを彼の金入から引出して、他は皆自分の金を使ったのだ。ああいう身分の女としては全く意外なことだった。そして……「空っぽかも知れないわよ」と冗談のように云った彼女の言葉が、彼はその時気にも止めなかったが、今はっきり思い出された。
 考えていると、それからそれへと種々なことが頭に浮んできた。もはや彼女から遁れられないような気がした。
 お清と高井英子と同一人ではないかという疑問は、それが消え失せた今となっては、根のない馬鹿げたもののように思われた。然し、その疑問が今迄如何に重大な働きをしていたかを、彼ははっきり知ることが出来た。余りにも事もなく消え失せはしたけれど、その後では、凡ての事情が一変してしまった。恐れていたことが遂にやってきた。彼は直接お清に面して立たなければな
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