に気が挫けてきた。彼女のうちの善良なものに何かを訴えたくなった。
「訳があるというんじゃないが、僕はその子供を教えてやってるし、子供の父親のことも可なり聞いてるし、子供を引取ってる奥さんにも随分世話に……。」
云いかけて彼は、きっと唇を噛んだ。
「その奥さんでしょう、あなたを大変可愛がってるというのは。」
彼は駭然として彼女を見つめた。
「そんなに喫驚しなくってもいいわ。別に変な意味で云ったんじゃないから。」
「じゃあ特別にそんなことを断らなくてもいいさ。」
「だけどあなたが変な風にとったようだから……。」
「馬鹿なことを云っちゃいけない。僕はその奥さんに非常に世話になってるんだ。心から本当に感謝してるんだ。」
彼はぷっつり言葉を切って黙り込んだ。云えば云うほど、心と言葉とがちぐはぐになりそうだった。そしてその結果が恐ろしくなった。お清の美しい二重眼瞼の眼がすぐ前に見開かれていた。
「いやに考え込んじゃったのね。」と暫くしてお清は云った。「もうそんな話は止しましょうよ。……何か面白いことはなくて?」
客は余り込んでいないらしく、家の中がひっそりしていた。周平はいつのまにか保子のことを考えて、涙ぐましい心地になっていた。お清の言葉に顔を挙げて見やると、酒のためか、額や蟀谷のあたりに陰鬱な影を漂わしていたが、ぽっと熱《ほて》っているらしいその顔から、湿いを帯びた黒目と唇とが、まざまざと覗き出していた。
「何だか淋しい晩ね。」
心もち傾げた首をそのままに、身を反らせ加減に疊についていた左手を餉台の上に持ってきて、人差指の先で一寸頬を支え乍ら、彼女は室の隅にじっと眼を定めた。
その姿から、周平はもぎ離すようにして眼を外らした。愛慾とも感傷ともつかないものが、しみじみと胸の底から湧き上ってきた。電灯の光りが余りに明るく感ぜられてきた。心苦しくなって坐り直した。
「もう出ようか。」
「ええ。」
口先だけで軽い返辞をして、それでもじっと見返してきた彼女の眼を、周平は顔を伏せて避けた。そして咄嗟に、懐の金入を彼女の前に抛《ほう》り出した。
「僅かしかないが、それでいいようにしといてくれよ。」
その日の朝、飜訳の原稿を少し届けて野村から借りてきた十五円と、他に細《こま》いのが少しはいってる筈だった。
「そう。じゃあ預かっとくわ。」
彼女は金入を帯の間にしまいかけたが、ふと顔を挙げた。
「あなたは苦学してるんじゃないの。」
「苦学というほどでもないさ。」と彼は苦いものでも吐き出すようにして云った。
「私これで、あなたのことはよく知ってるつもりよ。……私もね、東京へ逃げてきた当座、それはつらい生活をしたのよ。一日お藷《いも》をかじって過したこともあってよ。けれど、その頃が一番よかったわ、今から考えると。」
周平は俄に眼を輝かした。
「今君は何をしてるんだい。」
「何をって、カフェーの女中じゃないの。」
「それは分ってるさ。だが、何処に住んで何をしてるんだい。」
「何にも別に悪いことはしてないつもりよ。」
「将来何をするつもりだい。」
「そうね、今考え中よ。」
周平は更に疊みかけて尋ねようとしたが、彼女が口元に薄ら笑いを湛えてるのを見て、言葉が出なくなった。それを駄々っ児らしい気持で云い進んだ。
「ねえ、聞かしたっていいじゃないか。」
「今に分るわ。」と云って彼女は眼で笑ってみせた。そして急に調子を変えた。「それじゃ行きましょうか。」
彼女が手を叩いて、女中を呼んで、それから、勘定を済ますまで、周平は黙って頭をかかえていた。自分自身が妙に頼りなくて、頭が非常に重く感ぜられた。彼女から促されると、慌て気味に立ち上って帽子を取った。そして、先にたって外へ飛び出した。
明るい電車通りが眩《まぶ》しいように思われて、周平はまた池の方へ曲り込んだ。
「もう夜店もおしまいね。」とお清は後について来ながら云った。
まだ可なり人通りのある明るい街路に、早くもしまいかけてる夜店の灯が、妙に薄ら寒く散在していた。それを池の方へ曲ってしまうと、地の下から伝わってくるような底冷えが感ぜられた。霧は空高く昇ったらしく、星の光りが朧ろに薄らいで見えていたが、地上の空気は冷たく乾ききっていた。
もう何にも云うこともない、と思うのが俄に淋しくなって、周平は肩をすぼめた。
「僕は酔っちゃった。」
「私も。何だか頭がふらふらするようだわ。」
ふーっと息をして彼は振り向いた。彼女は池の面に映《うつ》ってる灯をぼんやり眺めていたが、二三歩してから急に足を止めて、彼の方を覗き込んできた。薄暗い中で、睫毛の影のない露《あらわ》な眼が、黝ずんだ熱っぽい輝きを見せて、これからどうするの? と尋ねかけてきた。瞬間に、彼は凡てを忘れた。いきなり彼女の肩に縋りついていった
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