女が小指だけ差出したのを、彼も小指を差出して、強く握り合せながら打振った。それから、何かを踏みにじるような気持で、わざと大きな足音を立てて階段を下りていった。足下《あしもと》がふらふらしていた。

     三十五

 霧深い夜だった。周平は約束の八時に五分前頃、お茶ノ水橋に行ってみた。変な意地からふと為した約束ではあったが、彼はもうそれを悔いてはいなかった。求めても得られないいい機会だった。此度こそ彼女に直接ぶつかってみよう、というのが彼の考えの全部だった。
 然しお清《きよ》はなかなかやって来なかった。周平は苛ら苛らしてきた。約束をした時の調子が調子だったので、或は来ないのかとも考えられた。彼は橋の西側を三四度往き来した。深い谷間に霧が濛々と渦巻いていて、両岸から差出た木立が梢の方だけ浮出して見え、その間から遠くに街路の灯が点々としてるのが、山の湯という感じを持っていた。彼はいつしかその景色に見とれて、橋の欄干にもたれて佇んだ。ともすると決心が鈍って、一種の甘い感傷に陥りかける心を、自ら気づいては抑え抑えした。
 彼はお清の家がどの方面にあるかを知らなかった。然し大抵は院線電車で来るだろうという気がした。電車が来て、可なりの人が停車場から吐き出されるのを、じっと物色してみたが、お清の姿を見出さないと、淡い不安に囚えられていった。そしてはまた橋の中程まで行って、その欄干にもたれて佇んだ。
 停車場から出て来た人の足音が途絶えて、あたりがひっそりとなった時、お清はひょっくり霧の中から現われてきた。
「御免なさい、遅くなって。」
 黙って彼の側へ寄ってきて、欄干に一寸手を置いたが、ふいに大きな声を立てた。
「おう冷たい。濡れてるじゃないの。」
 鉄の欄干が霧にしっとりと濡れてるのを、周平は初めて気づいた。驚いて手を引込めながら、彼女の顔をじっと眺めた。彼女は薄暗い中で大きな瞬きを一つして云った。
「でもよく来て下すったわね。私すっぽかされるのじゃないかと思って、蓬莱亭へ一寸寄って来たから、遅くなったのよ。」
「だって約束じゃないか。」
「約束は約束だけれど……。」
 云いさして彼女が、笑みを含んだ眺め方をしたので、周平は漸く心が落着いた。ただ彼女が、水浅縹色《みずあさぎいろ》の長い毛糸の肩掛をしてるのが、一寸変に思えた。
 周平は黙って歩き出した。橋から右へ河岸《かし》に沿い、万世橋の方へ行ってみたが、側を通り過ぐる電車の響がうるさくて、ふいと左の横町に曲り込んだ。お清は少し離れてついて来たが、人通りが少くなると、肩がすれすれになるくらいに寄ってきた。
「昨晩《ゆうべ》あれから可笑《おか》しかったわ。」
「何が?」
「竹内さんがね、やっぱり私達の話を聞いてたとみえるわ。何処へ行く約束をしたんだいと聞くんでしょう。そんなことを聞く人があるものですかとつき放してやると、そんなら、君達はいつ頃からそういう仲になったんだい、ですって。」
 周平は何とも云わないで振向いてみた。彼女は澄して云い続けた。
「あんまりだから、私白ばっくれて、もうずっと前からよ、今迄気がつかないなんて、あなたも随分ぼんやりね、と云ってやったの。すると此度は、前からっていつ頃だいと、いやにしつっこく聞くんでしょう。いつ頃からだか覚えていないと答えると、暫く考えこんでから、急に真面目になって、それじゃ僕は井上君に忠告してやらなけりゃならない、ですって。随分人を馬鹿にしてるわね。」
「それから?」と周平は少し気になって尋ねた。
 お清は心もち肩を峙てて霧の中を透して見るようにしながら、五六歩した後に云い続けた。
「そして云うことが振ってるわ。井上君は君とそんなことをしては他に済まない人が居る筈だと、こうなんでしょう。……でも、あなたそんな人があって?」
 周平はぎくりとした。竹内が最近横田の書斎へ時々顔を出してる由を、俄に思い出した。然し、済まないというのがどういう意味であるか推しかねて、黙っているうちに、お清は先を続けた。
「あってもなくっても、そんなこと別に構やしないわね。だけど、あんまりな云い草だから、あなたはいやに人を見下してるのねと、つっかかっていってやったの。私少し酔ってたのよ、屹度。そして訳の分らないことを云い争ってるうちに、何だかこんぐらかってしまって、それから、竹内さんの捨台辞にね、要するに僕も君に惚れてるのさ、ですって。私鼻の先でふんと澄してやったわ。……あんな厭な人ってありゃあしない。」
「そんなに悪く云うもんじゃないよ。」と周平は漸く云った。
「構やしないわ。すぐにおかしな関係があるように取るのが、あの人のいつもの癖なんだから。先《せん》にも同じようなことがあったのよ。」
「石のつぶての一件の時かい?」
「あら、あなたも知ってるの……あの時はほ
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