んとに可笑しかったわ。でもあれは、私の知恵じゃないのよ。お主婦《かみ》さんと二人で一生懸命に考えたのよ。」
「然し随分長い間の執念だね。」
「え?」
「竹内がさ。」
「何だか分ったものじゃないわ。あの人にはいやな野心ばかりしかないんだから、うっかり出来やしない。私ちゃんと尻尾を掴んでいることがあるのよ。」
そんなことを話してるうちに、周平は次第に心が或る深みへ引きずり込まれる気がした。お清の言葉を本当だとすれば、そういう風に自分との関係を竹内に伝えられた以上は、今後このままでは済みそうに思えなかった。一時の意地張りからとは云えないものが感ぜられてきた。そして彼は、一種の甘い心の動きと矜りとを禁じ得なかった。それが一転して気遣わしい不安となった。彼は竹内のことを考え、次に保子のことを考えた。然しお清から来る魅惑の方が更に強かった。それに抵抗しようとしても、ともすると足が滑りそうだった。縋るべきものはただ一つの問題のみだった。彼は愈々時機が来たのを感じた。
電車通りへ出た時、お清は一寸足を止めた。彼はそれに構わず、黙って通りを向うへ横切った。それからすぐに不忍池《しのばずのいけ》の端に出た。
「もう活動や寄席《よせ》も遅いわね。」
その言葉が彼には、何かを促すように聞き做された。
「一寸話があるんだが、も少し歩かない?」と彼は云った。
大きく見開いた眼でじっと見られたのを、彼は上から押被《おっかぶ》せた。
「もう疲れたの。」
「いいえ、歩くわ。……どんな話?」
彼は何とも答えないで、云い出すべき言葉を心の中で考えながら、池の岸に沿ってゆっくり足を運んだ。彼女も彼と肩を並べてついてきた。
霧は少し薄らぎかけていたが、まだ星の光りは見えなかった。一面に茫とした中に、弁天島や対岸の点々とした灯が、魚の眼のように浮出していた。枯蓮の静まり返ってる池の面から、裾寒い空気が寄せてきた。周平は眼を足下に落しながら云った。
「真面目な話だから、本気で答えてくれなくちゃ困るよ。」
「あなたが本気で云うんなら、私も本気で答えるわ。」
「そしてね、これは秘密の話なんだから……。」
「ええ、誰にも洩さないわ。」
余り事もなげな調子だったので、周平は多少不安な気もしたが、もう躊躇する場合でなかった。いきなり切り込んでいった。
「君に姉さんがありはしないかい。」
「あるわ、二人。」
「今どうしてるの。」
「二人共お嫁に行って、仕合せに暮してるそうよ。……私はもう長く逢ったことがないから、よく知らないけれど。」
「初婚かい。」
「ええ、早く結婚しちゃったのよ。」
「何処で?」
「名古屋で。名古屋が私の故郷よ。」
「それじゃ、君に妹があるかい。」
「私は末っ児よ。」
「君の名は高井清子といったね。」
彼女は笑い出した。笑いながら周平の腕につかまってきて、自棄になったように揺ぶった。
「しっかりなさいよ、馬鹿々々しい!」
「いや、これから追々本当の問題に触れてくるんだ。」
と云ったが、それが自分でも変に調子外れの気がして、彼はぼんやりしてしまった。話の緒《いとぐち》が分らなくなった。それを強いて云い進んだ。
「君は以前に、或る人と同棲していて、子供を産んだことがあるだろう。」
怒鳴りつけるように云い捨てた彼の言葉が消えてしまってから、暫くして、お清は落着いた調子で答えた。
「ええ、あるわ。」
周平はぎくりとして振り向いたが、彼女の顔はただ真白な冷たさで静まり返っていた。
「それじゃ、その子供が今どうしてるか知ってるかい。」と周平は急き込んで尋ねた。
「知ってるわ。」
「じゃあ僕のことも知ってるんだね。」
「あなたのことって、一体どんなこと?」
見返した彼女の眼は、冷かに澄み切っていた。周平は黙って歩きだした。頭がもやもやしてきた。
「どうしたのよ。」とお清は後から追っかけてきた。「すっかり仰言いよ。訳が分らないじゃないの。」
「だが……その子供は今何処に居るんだい。」
「地の下に居るわ。他家《よそ》にやってるうちに死んじゃったんだから。」
周平はぽかんとして足を止めた。その顔を彼女は覗き込んできた。そして俄に言葉を続けた。
「それをどうしてあなたは知ってるの。」
「本当に死んだのかい。」と周平は云った。
「本当でしょうよ、屹度。」
無関心な調子でそう云い捨てておいて、彼女は更にじっと覗き込んできた。周平は眼を外らしてまた歩きだした。
暫くすると、お清は後からふいに呼びかけてきた。
「井上さん!」
周平はちらと投げた眼付でそれに答えた。
「あなたはどうしてそんなに子供のことを気にかけてるの。何か訳があるんでしょう。」
彼女は小走りに二三歩寄ってきて、周平の肩に軽く手を置いた。その接触を周平は俄に息苦しく感じた。袂から煙草を探ってマッ
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