者の姿を見て取ることが出来なかった。そこへ、誰かが慌しく階段を上ってきた。
「おはいりなさいよ、知らない人じゃないから。」と云ったのはお清の声だった。
 それに答える低い声がして、二人は向うの室にはいった。
 周平は変な気がした、聞くともなく耳を傾けていると、暫く低い話声が続いた後に、あははと高い笑声がした。竹内の声そっくりだった。はっと思った時、「知らないわよ、いい加減になさい、」という声と共に、お清は向うの室から出て、階段を下りていった。
 それが変に周平の気にかかった。やがてお清らしい足音が、料理や酒を運んできたらしく、階段を上って向うの室にはいると、周平は我知らず立ち上ったが、また思い直して長椅子に身を落した。それでも、知らず識らず向うの話声に耳を澄した。然し何にも聞き取れなかった。
 彼は苛ら苛らしてきた。これまで向うの室に知らない客が来ることはあったが、いつも彼の注意を惹かないほど高い話声や笑声のみだった。所がその晩だけは全く調子が変っていた。彼は先刻のお清の言葉と竹内らしい笑声とを思い出した。それから俄に、これまでの竹内の変な態度が頭に浮んできた。
 竹内に違いない、そう思うと彼は一種の不安と憤りとを禁じ得なかった。竹内が自分を避けてる理由がはっと胸に響いた。向うがそのつもりならこちらは反対に出てやれという気になった。そして彼はお清が来るのを待った。然し彼女はなかなかやって来なかった。彼は更にじりじりしてきた。残りの料理と酒とをみんな平《たいら》げてしまった。それから長椅子の上に寝そべった。頭がかっとしてきた。
 彼はお清がそっとはいって来たのも知らなかった。「あら、寝てるの、」という声に飛び起きると、彼女はすぐ彼の前に立っていた。
「まあここに坐れよ。」と彼は怒鳴りつけるように云った。
 お清は黙って椅子に掛けたが、何だか興奮してる様子だった。身体を固くして、口をきっと結んでいた。小さな唇に小皺が寄っていた。周平は一寸気勢を挫かれた気持で、低く尋ねてみた。
「向うに来てるのは竹内だろう。」
 お清は何とも答えないで、ちらと彼の眼を見返した。
「おい、竹内だろう。」と周平はまた尋ねた。
「ええ、そうよ。」
 事もなげに答えておいて、お清は急に彼の方へ向き直った。
「あなた、竹内さんと喧嘩でもしたの。」
「なぜ?」
「だって、いやに気にしてるじゃないの。」
 彼は何とも答えないで空嘯いてみたが、ふと、先刻自分がしたように、竹内が向うからこちらの様子に耳を澄してるに違いないと思うと、それが気になって落着けなかった。
「竹内ならこちらへ呼んできたらいいじゃないか。……僕が来てることは知ってるんだろう。」
「ええ。だけど一人がいいんですって。」
「変な奴だな。」
 お清は口を尖らしてみせた。
「何だい?」
「ほんとに変よ。あなたが来てると竹内さんはいつも帰ってゆくから、今日はだまかして三階に通してやったのよ。すると、おかしかったわ。酔っ払ってる癖に急に真面目な顔をして、内密内密《ないしょないしょ》だって……。」
「よし、そんなら僕の方から押しかけていってやる。」
 周平が立ち上ろうとするのを、お清は無理に引止めた。
「そんなに気にかけなくってもいいじゃないの。」
 云われてみると、周平はぎくりとした。何かと空威張《からいば》りをしてみても、やはり声をひそめてこそこそしていたことが、俄に頭に映ってきた。そして自分自身に腹が立ってきた。そのままでは済せない気になった。半ば捨鉢に声を高くして云った。
「おい、お清ちゃん。」
 お清は喫驚したように、二重眼瞼の眼を一杯見張ってくるりとさした。
「今晩何処かで逢わない?」
 云ってしまうと、案外心が落着いてきた。じっと見つめられたのを、彼も見返してやった。彼女はその眼を外らして、向うの室へちらと目配せをした。
「だからさ。」と周平は低く囁いた。
 お清は眼と口とで微笑んだ。
「どうだい。」
「今晩は駄目。」彼女も大きい声で云った。
「じゃあ明日《あした》。」
「明日ならいいわ。お午《ひる》から?」
「昼間はいやだ。晩にしよう。」
「ええ。八時頃。」
「本当かい。」
「本当よ。」
 言葉が途切れると、不思議な気持になった。二人共ぼんやり顔を見合った。嘘とも真《まこと》ともつかない約束が、ぽかりと投げ出されていた。周平は手を銚子にやったが、酒はもうなくなっていた。も一本とお清が云うのを断って、そのまま帰りかけた。
「どうするの?」とお清は低く云った。
 周平はその眼を覗き込んだ。敵意を以て挑みかかるような鋭い眼付だった。
「本当さ。」と彼は云い捨てた。そして咄嗟につけ加えた。「八時頃、お茶ノ水の橋で待ち合せよう。」
「屹度ね。」と彼女は声高く叫んだ。
「ああ。」
「じゃあお約束」
 彼
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