ゃないか。もうこの手は離さない。……居てくれよ、頼むから。惚れられたと思やいいじゃないか」
 彼は駄々をこねるように身を揺っていたが、急に眼の底が熱くなってきて、卓子の上につっ伏した。
「ああ酔っちゃった。」
 吐き出すように云ったのがなおいけなかった。熱っぽいものが胸の底からこみ上げてきた。
「気分でも悪いの、え?」
 お清は歩み寄ってきて、彼の肩に手を置いたが、それから、無理に顔を挙げさした。彼は涙にぬれた顔をひょいと挙げて、大声に笑ってやった。
「どうしたのよ、井上さん!」
「泣いたり笑ったり……。」
 ぴょんと跳ねて長椅子の上に身を落したが、後の言葉がつかえているうちに、彼は俄に真剣な気持になっていった。英子かも知れないお清とこうして戯れてることが、頭の奥に恐ろしい閃きとなって映った。眼を見据えると、お清は卓子の端につかまって立ちながら、こちらをじっと見ていた。前髪の影を受けた顔の中に、すっと通った鼻筋が白々しく澄していた。
 周平は急に立ち上って云った。
「もう帰るよ。」
「あら、どうして?」
 彼が何とも答えないで帽子を取ろうとすると、お清は素早くそれを取上げてしまった。
「いやよ、訳を云わなきゃ。」
「何の訳?」
 じっと眼を見合したが、彼女の瞳はたじろぎもしなかった。周平は眼を伏せて歩きだした。歩きながら云った。
「今日はもう帰してくれよ。一寸気にかかることを思い出したんだ。急ぐんだ、非常に。また来るよ。その時すっかり話すから。嘘は云わない。勘定もこの次にするから、宜しくやっといてくれ。さ早く。くれなきゃ、帽子は預けとくよ。」
 彼は一寸待ったが、彼女が何とも云わなかったので、そのまま扉の方へ歩み寄った。扉を開けて薄暗い廊下に出ると、彼女は後から駈け寄ってきた。
「今晩あなたは酔ってるから、真直に家へお帰んなさい、ねえ。」
 何を云ってるんだと彼は思ったが、その瞬間に、彼女はつと彼の手を執って握りしめた。いやに冷たいかさかさした掌《てのひら》だったが、それが却って彼の心に強い響きを与えた。彼は涙ぐましい心地になって、その手を強く握り返した。そして、差出された帽子を引ったくって、飛ぶように階段を下りていった。
 外の寒い風に吹かれると、足がふらふらしてるわりに、頭がはっきり冴えてきた。いつのまにか深みへ陥っている自分自身が、驚いて顧みられた。彼は長い間街路をさまよい歩きながら、しまいには、お清から遠ざかろうと思ったり、お清にぶつかってみようと思ったりした。
 然しそれは二つながら実行出来ない決心だった。
 彼は今迄に何度か、お清から遠ざかろうと決心したのだった。けれどそれが出来なかった。お清と英子とは同一人であるかも知れないという疑いは、彼のうちに根を下して、一種の幻覚に似た形を取っていた。絶えずそれが頭につきまとった。隆吉を相手にしてる時、保子の前に淋しい心を投げ出してる時、彼はふとお清のことを思い出して、慌てて立上ることが多かった。保子からそれとなく様子を窺われてることを知り、今にも大きな打撃がやってくることを予期しながらも、やはりお清の方へ惹かされていった。
 それでも彼は、お清と顔を合せると、じかにぶつかってゆくことが出来なかった。彼女が果して英子と同一人であるかないか、ぶつかった後に明かとなった場合には、その何れの結果も恐ろしい気がした。英子だったら……。英子でなかったら……。どちらを考えても、後に残される痛ましい自分自身の姿が見えてきた。お清に心惹かされてるのは、もはや単なる好奇心からばかりではないことを、彼ははっきり意識していた。お清が英子であるかどうか分らないうちは、その意識をごまかすことが出来た。然しそれが明かに分った場合には、もはやごまかしは許されなかった。そして英子である彼女を愛することは勿論、英子でない彼女を愛することも、保子の幻を前にして、堪らないことだった。彼は吉川の運命をまざまざと頭に浮べた。
 然し今更後へは戻れなかった。そしては酒を飲んだ。酒を飲むと、凡てが一色の悲壮なものに塗りつぶされた。

     三十四

 そういう周平は、蓬莱亭で時々竹内と出逢うのを、殆んど気にも留めなかった。
 一度は、二三の友人と階下に居る時、竹内が上から階段を下りてきた。次には、蓬莱亭の前で出逢った。周平は誘われるのを断って、中にはいらないで通り過ぎた。また次には、周平は三階から下りてきて、階下の室を通りぬけ、表へ出ようとして扉を引開くる途端に、階段の蔭から竹内が出て来るのを、ちらと認めたように思った。
 所が或る晩、周平が三階の室で可なり酔っ払って、一人ぼんやりしている時、よろめくような足音が階段を上ってきて、廊下に立ち止った。扉が一寸開いてまた閉められた。廊下が薄暗いので、周平はその瞬間に外の
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