ていたが、周平は俄にうすら寒い気持になって、村田の方を顧みた。
「何処かで熱いのを一寸やりたいね。」
「よかろう。」
 村田は言下にそう答えながら、何処ともきめないで歩いてるうちに、他《ほか》のことを云い出した。
「実はね、僕は吉川さんのことを小説に書こうかと考えてみたんだ。勿論、モデル問題が起らないくらいに修飾をしてね、それから横田さん二人のことも――これは恋の勝利者だから構わないようなものの、一寸気がさすので省《はぶ》いてしまうんだ。要するに、失恋して自棄になってる所へ、変な女に引っかかって、生憎《あいにく》と子を産ませてしまい、それからその女に捨てられて、一人で子供相手に暮すという筋さ。自暴自棄から次第に真面目なヒューメンな気持へ落着いていく心理、それが出なければ駄目だね。所が今の僕では、とてもそこまで突込んでいけそうもないから、構想の途中で止してしまったが、考えてみれば筋が少し陳腐だね」
 周平は今そんな話を聞きたくなかった。
「おい何処にしよう。」と彼は云った。
 村田は話の腰を折られて、きょとんとした眼付をした。
「今晩は君と二人きりでゆっくり話したいね。」
「よし、誰も来ない家に行こう。」
「蓬莱亭の三階はどうだい。」
「さあ。」と村田は一寸首を傾《かし》げた。
「僕はまだ一度も上ってみたことがないんだが、丁度いい折だからどうだろう。」
「そうだね。」と村田はなお決しかねてる様子だったが、突然大きな声で云った。「じゃそうしよう。だが君、案外汚い所だぜ。」
 村田はぴゅうと口笛を吹いて、それからまた他のことを云い出した。周平はそれをいい加減に聞いてるうちに、ふと気がかりになって、懐の淋しいことを断らなければならなかった。
「心配するな。そんなことは分ってるよ。」と村田は云った。

     三十二

 蓬莱亭の前まで行くうちに、周平の心は一種の不安を感じだした。
 お清《きよ》と英子とが同一人であるかも知れないという彼の想像は、村田が英子の顔を知らないということによって、一つの障害が除かれたわけだった。彼はその想像を益々逞しゅうしながら、一方にはその想像が事実となった場合のことを思うと、何としていいか分らない気持になった。
 その上、彼はも一つ気懸りなものを感じた。ひそかに村田を誘って蓬莱亭の三階へ落着こうとしたのは、気の置けない――場合によっては凡てを打明けてもいい――村田と二人きりで、ゆっくりお清に逢ってみたいからだった。然し今その途中に在ると、お清にゆっくり逢いたいというのは、単なる好奇心からばかりではないような気がした。お清の身の上に種々な想像をめぐらしながら、いつのまにか頭の中に浮べてる彼女の姿に対して、彼は淡い胸の震えを覚えた。それは、保子に対する気持と、同じ種類でありながら異った調子のものだった。恋でも愛でもないけれど、それに似た怪しい魅惑で、一方が澄みきってるのに対して、これは底の方に熱っぽい濁りを持っていた。
 彼は暗い所へでも陥ってゆくような気がした。と同時に、そうした自分自身を甘やかすような気分も動いてきた。陥るなら陥るがよい、その後で跳出してやれ、と後は淋しい心の中で自ら云った。
 蓬莱亭の前に立って、内部に白い布《きれ》を垂れてる硝子戸の隙間から、そっと中の様子を窺うと、五、六人の客が声高に談笑していたが、親しい仲間の者は来ていないらしかった。
 村田は周平の方へ一寸|目配《めくば》せをして、つと扉を押した。周平は黙って彼の後に随った。
 奥の帳場格子の向うに、どんなことがあっても没表情な顔をくずさない主婦《おかみ》さんが、ぼんやりした浅黒い顔を見せていた。村田は真直にその方へ行った。
「今日は井上君と一寸秘密な話がありますから、三階の室をかりますよ。」
「ええ。」と主婦さんは簡単な返辞をした。
 二人の姿を見て、程よい卓子に椅子を直していた女中に、村田は低く囁いた。
「今日は三階《うえ》へ行くんだ。誰が来ても知らせないでくれ給え。」
「なぜ?」
 それには答えないで、村田はさっさと広い階段を上っていった。周平はその階段に踏みかけるまでに、階下にはお清がいないことを見て取った。
 階段を上りきると、階下《した》からは想像がつかないくらい広い明るい広間に出た。真白な布をかけた卓子が規則正しく並べてあった。窓に近い卓子で、二組の客が食事をしていた。其処にもお清の姿は見えなかった。
 広間とその横の小さな室との界目から、薄暗い狭い階段が急な角度で上っていた。それを上りつくすと、五燭らしい電灯がぼんやりともってる狭い廊下に出た。左手は疊を敷いた室で、薄汚れのした絨緞の上に餉台《ちゃぶだい》が一つ置いてあった。右手は天井だけ白く塗った裸壁の洋室で、一つの長椅子と二、三脚の籐椅子とが、室の割に大き過ぎ
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