かった。反撥的な昂然とした気持にもなった。暗い絶望の気持にもなった。ただ彼女が恋しくて切ない気持にもなった。凡てを夢だとする清々しい気持にもなった。周囲にも自分自身にも反抗して起とうという勇ましい気持にもなった。万事を投げ出して彼女の心に縋ろうという気持にもなった。そしてしまいには、あらゆる気持が錯雑して、昏迷のうちにひっそりと静まり返った。
彼はうち開いた窓から大空を眺めた。空にはもう秋の色があった。しめやかなものが心をしめつけてきた。彼は長い間じっとしていたが、俄に意を決して立ち上った。――彼女に対する気持は、それを遠い昔の恋として心の奥に押込んでおこう。そうすることから湧いてくる悲壮な力を、自分自身を振い立たせる方へ導いて進んでゆこう。凡てを未来にかけて過去を葬ろう!
彼は机の抽斗から、吉川の日記の写しを取出して、それを火鉢の中で灰にしてしまった。ぺらぺらと紙をなめる青い焔を見ていると、云い知れぬ涙が出て来た。その涙も今は快いものであった。
彼は腕を組み眼を閉じ頭を垂れて、暫く無念無想にはいろうとした。そして、それが乱れかけてきた時つと立ち上った。それから横田の家へ急いだ。
二十五
周平は横田の家の前を二三度往き来して、それから意を決してはいって行った。玄関に出て来た女中の後について、座敷へ通った。
「井上さんがいらっしゃいました。」
そう保子へ告げてる女中の後ろに、彼はぼんやりつっ立っていた。保子はその姿を見ると、丁寧だといえる位に挨拶をした。
「いらっしゃい。」
周平は一寸狼狽した。が次の瞬間には、強い調子の言葉を浴せかけられていた。
「井上さん、どうしたの? 用がなければそれっきりとは、随分ひどいわよ。私あなたが来たら、うんと小言《こごと》を云ってやろうと思ってたのよ。」
然しその眼はやさしい色を浮べて、彼を抱き取っていた。彼は変にちぐはぐな気持で、其処へ坐りながら云った。
「一寸忙しい用があったものですから……。」
「君にだって忙しいことがあるのかい?」と庭の方から声がした。
横田が庭の中に屈んで、水を半分ばかり張った大きな空の蓮鉢を眺めていた。周平はかすかな驚きを覚えた。それを自ら押し隠して云った。
「もうお帰りなすったんですか。」
「ああ二三日前に。」と横田は答えた。それから急に調子を変えた。「留守中はいろいろ有難う。退屈だったろうね。」
「いいえ。」
次に何か云おうとした時、彼は頬の筋肉がぴくぴく震えるのを覚えた。見えない位に下唇を噛んで、気持を捨鉢な方へ転換して、軽く息をついた。
「あなたに見せたいものがあるのよ。」と保子は云った。「何だかあててごらんなさい。……まあ当りっこはないけれど。」
少しの曇りをも帯びない露《あらわ》な眼付が、彼の方を覗き込んでいた。
「だし……」ぬけに、と云おうとして彼は言葉を途切らした。横田の前に彼女からの葉書のことを隠すべきか云うべきかを迷った。咄嗟に、そんなことはどうでもいいと考えた。そして云い直した。
「だって、当らないものを当てさせるってことがあるものですか。」
「君、一寸これを見てみ給え。」と横田が声をかけた。
周平は縁側に出てその方を見た。横田が覗いてる蓮鉢の中に何がはいってるのか見えなかった。庭下駄をつっかけて下りていった。
「あ!」と彼は声を立てた。
蓮鉢の中には、拇指二倍大位の鰻が十四五匹うようよしていた。
それは、横田が田舎から持って来た土産だった。小さなバケツの中に藻を一杯つめ、軽く水を浸して、その中に入れて来たのだそうである。五六時間の旅をしたのに、水に入れてやるとまだ元気にしていたとか。
「鰻というものは面白いものだよ、僕は大好きさ。」と横田は云った。「産卵期になると海へ下って、何十尋という深い底へもぐり、其処で卵を産むものなんだ。その孵化《かえ》った奴が鉛筆位の大きさになると、群をなして川を溯るんだよ。面白いじゃないか。」
「本当ですか。入口のない沼やなんかにも鰻の子が居るんですがね。」
「それこそ山の芋が鰻に化けた奴なんだろうよ。」と云って、横田はまた蓮鉢の中を覗き込んだ。「見事な鰻だろう、君。これを君に御馳走しようと思って待ってた所なんだ。」
周平はそれを辞退するわけにゆかないような気がした。
鰻はすぐに、近所の魚屋《さかなや》の手で割かれた。それを保子と女中とで、避暑地から覚えてきた通りにして焼いた。金網の上でじりじり焼かれる匂いが、座敷の方まで漂ってきた。庭の蓮鉢にはまだ、半数ばかりが二三日の余命を残されていた。
「何だか残酷ですね。」と周平は云った。
「然しね、」と横田は答えた、「蒲焼になったのを見ると、生きてた時とは全く別なものという感じしかしないよ。魚《さかな》でも野菜でもそうだが、料理はそ
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