持が湧き上ってくるのを、彼はじっと押えつけた。最初苦学をも辞さないと決心した時のことが、頭の中に浮んできた。記憶の底にこびりついてるあの晩の夢が、また思い出された。逞しい乞食の姿が見えてきた。彼は自ら云った。「自分は逞しい乞食となりたくはない。逞しい闘者となりたい。」
 それでも、決心だけはあっても、これからどうしていったらいいか、殆んど見当がつかなかった。思いあぐんだ末には、ただ保子のことがしみじみと考えられた。
 野村からはやがて、「労働組合と労働者」を送ってきた。周平は一寸覗いてみて驚いた。文章がいやにひねくれてる上に、自分の知識の範囲外のことなので、理解するのが非常に困難だった。更にそれを日本文になおすとなると、やたらに出てくる経済上の言葉を、どう訳していいか分らなかった。その上彼は、英語と独逸語しか知らなかった。中に出てくる仏語や伊語を大学の誰彼に聞くのも大変だった。彼はその文章に少し馴れるために、三日もかかってざっと通読してみた。――労働組合は、初め資本家に対する労働者の自己防衛機関として出来たものだが、次に共済機関となり、一転して戦闘機関となった。そして、戦闘の勝利と共に解体す可きものである。なぜなら、勝利の後に労働者は、個人として小資本家になるか、或は団体として大資本家になるを以て、組合は畢竟資本家の組合になる運命にあるからである。この危機を救済せんがためには、財を個人もしくは個人の団体より解放しなければならない。換言すれば、所有の観念を根柢より覆してかからなければならない。――というのが大体の論旨らしかった。それに各国の労働組合の詳細な解剖が鏤めてあった。
 周平には論の当否は勿論分らなかったし、詳細な点は文章の理解さえも困難だった。ただ、財を個人もしくは個人の団体より解放するということに、一寸気を惹かされた。然しその明瞭な観念は得られなかった。
 彼は書物を投げ出し、自分自身をも疊の上に投げ出した。外にはしとしと雨が降っていた。梅雨のような陰鬱な雨だった。妙に物の輪郭がぼやけて薄暗かった。そして彼はいつのまにか、写し取った吉川の日記を又読み耽っていた。それに自ら気づくと、吉川と自分とが同一人であるような怪しい心の惑いが起った。
 彼は立ち上って室の中をぐるぐる歩き出した。彼女に、保子に、もう一度逢いたかった。その晴れやかな張りのある声を聞きたかった。然しこちらから訪れて行くのは憚られた。あの約束は、単なる約束として心に秘むべきもので、それに頼って図々しい行動に出てはいけないような気がした。
 保子からは何の便りもなかった。彼は次第に憂鬱な絶望のうちに陥っていった。
 所が、或る朝――周平が下宿へ帰ってから十日ばかりの後――保子の葉書がふいに舞い込んだ。
 その朝周平は、いつもの通り遅く眼を覚した。もう廊下向うの雨戸を明け放してあった。枕頭《まくらもと》には新聞が投げ込まれていた。彼は眼をこすりながら、その新聞を取ろうとした。すると、新聞の上から疊へぱたりと落ちたものがあった。一枚の絵葉書だった。松が二三本並んだ砂浜の向うに、大きな波を捲き返してる広々とした海があった。周平はそれを一寸眺めた。下の方に刷り込まれてる大洗《おおあらい》という文字が眼に留った。彼ははっとした。急いで表を返して読んでいった。

 其後どうなすったの。ちっともお出でがないのね。御病気じゃなくって。御病気だったら見舞に上るわ。御病気でなかったらいらっしゃいよ。隆吉も待ってますから。あなたに見せたいものがあるのよ。
[#地から2字上げ]横田保子

 周平は葉書を手にしたまま飛び起きた。窓の戸を開け放った。涼しい空気が流れ込んできた。彼はまた其処に坐って、二度くり返して葉書の文句を読み直した。それからその名前をじっと眺めた。
 初めの驚きと喜びとの胸騒ぎが静まると、彼は変な気がしてきた。横田保子と口の中で云ってみた。見知らぬ人の名前にでも出逢ったような気持だった。彼にとっては、横田というのは主人|禎輔《ていすけ》の方のことであり、保子というのは――勿論横田夫人ではあるが――なつかしい「彼女」のことであった。横田保子と両方くっつけた名前を彼は嘗てはっきり頭に入れたことがなかったのである。彼はまた横田保子と口の中でくり返した。
 それに自ら気づいた時彼は、自分が如何なる地位に在るかをはっきり感じた。自分の態度をきめてかからなければならないことを感じた。
 もう横田の家から身を退くのが至当だと思い、保子との約束だけを心に秘めて自分一人の途を進もうと思ったのは、単なる気持の上のことだけだった。それが今は、保子の葉書をつきつけられた今は、ごまかしを許さない実際の問題となったのである。
 彼はその半日考えあぐんだ。然しいくら考えても解決される問題ではな
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