のものに対する感じを、本質的に変化させるようだね。」
 実際、やがて食膳に上せられた蒲焼には、生きてた時の鰻の感じは殆んど残っていなかった。周平は変な気がした。変だといえば、横田や保子や隆吉などに対しても、変な気がしてきた。先刻まであんなに苦しんできた問題が、いつのまにか底の方へ隠れて、平和な晩餐の気が座を支配していた。横田はちびりちびり杯をなめていた。保子は火にほてった顔を輝かしていた。隆吉は旨《うま》そうに蒲焼をしゃぶっていた。
 周平は黙って杯の数を重ねた。
「井上さんは、」と保子が云った、「飲めないような顔をして随分飲めるのね。」
「飲めないような顔って、どんな顔なんです。」と周平は云った。
「あなたみたいな顔。鏡でみてごらんなさい。」
 周平は突然不快を覚えた。彼は自分の顔立の欠点を知っていた――眉と眼との間が迫り、鼻がわりに長く、※[#「臣+頁」、第4水準2−92−25]が短かった。それを今保子から軽蔑されたような気がした。何とか云い返してやりたく思ってると、横田が口を開いた。
「では、僕の顔はどんな顔なんだい。」
「銅像みたいですよ。酒なんかぶっかけても当分はげそうにないわ。」
「そんなに黒くなったのかな。」
「ええ、真黒よ。ねえ、井上さん。」
 微笑んだ唇から白い歯を覗かして、軽く首を傾《かし》げてる彼女の姿を、周平はちらりと見やった。睫毛の影を宿した濡いのある眼が、彼の心を囚えた。彼は額が汗ばむのを覚えた。すると、俄に顔が赤くほてってるのを知った。彼女が云い出したのは、顔の恰好ではなくて色のことらしかった。それでも反抗的に云った。
「顔の批評は止しましょうよ。生れつきで自分でどうにも出来ないことだから。」
「これはいいや」と横田が応じた。「全く顔立は自分でどうにも出来ない。」
 保子は一寸腑に落ちないような眼付をしたが、それから俄に笑い出した。
「酒を飲む人に赤鬼と青鬼とあるんですって。あなたは飲むとなお黒くなるから、まあ黒鬼ね。井上さんはすぐに赤くなるから赤鬼。私が青鬼になると丁度いいわね。少し飲んでみましょうか。」
「青鬼は御免だよ、後の世話が厄介だから。赤鬼の方がいい。」
「私そんなに赤くなっていますか。」と周平は云った。
「ええ真赤よ」と保子が答えた。「あなたは不思議ね、すぐに赤くなって、それからいくら飲んでも平気だから。」
 実際周平は、顔が赤くなりながら少しも酔を覚えなかった。頭の中が冴え返ってくるばかりだった。そして、室の中の光景が、硝子をでも通して眺めるように、淋しくひっそりと感ぜられて仕方がなかった。その冴えた淋しさが更に自分の方へ反射してきた。
 彼はいい加減に食事を済して縁側に出た。星も見えない魔物のような夜だった。眼をつぶって暫くじっとしてると――隆吉がやって来た。彼はいきなりそれを捉えて、膝の上に抱いてやった。静かな涙が出て来た。

     二十六

 頭の中で考えめぐらしたことが、実際に当っては如何に無力なものであるかを、周平は知った。進むか退くかの問題に於て、自分の態度を定める問題に於て、その時々に考え決意したことは、実は、その時々の気分に過ぎなかった。気分が異るに随って、考えもすぐに変っていった。その間に、事実はぐいぐい進んでゆく、凡てを引きずって進んでゆく。そして何処まで進もうとするのか?
 周平は、考えると恐ろしくなった。横田と保子と隆吉とを前にして、自分の地位を顧みると、このままでは済みそうになかった。而も自分の意志が無力だとすれば、どうすればいいのか。眼に見えてる破滅を避けるためには、事実の進みを多少なりと正しい方向へ導くためには、もはや、思いきってぶつかってゆくの外はなかった、先へつきぬけるの外はなかった。焦慮しながら事実の後へくっついていくのは愚の至りだった。
 彼は大胆に凡てを取り容《い》れようとした。元通り、毎週一回隆吉の質問に応じに来た。横田や保子に対して、あらゆる気兼ねを打捨てながら、平然と――図々しいほど――振舞った。そして遂には自分の心が、強い力のうちに支持されてるのか、或は捨鉢に投げ出されてるのか、彼は自ら分らなくなった。
 それを、保子は勝手に引廻した。
 隆吉の方の用が済むと、彼女は彼に遊んでいらっしゃいと云った。彼は彼女の側に腰を落着けた。取留めもない世間話をした。夕方になると、御飯を食べていらっしゃいと彼女は云った。御馳走がありますかと彼は尋ねた。その御馳走が出来る間、彼は庭をぶらついたり、寝転んで雑誌を読んだり、隆吉を相手にしたりした。横田と将棋をさすこともあった。食後横田が書斎に退いても、彼は立ち上らないことが多かった。隆吉や時には女中をも交えて、トランプをしたり、五目並べをやった。仕事を済した横田がそれに加わると、帰るのがなお後れた。漸
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