戍った[#「見戍った」は底本では「見戌った」]。見戍りながら[#「見戍りながら」は底本では「見戌りながら」]黙っていた。
そこへ、隆吉がかけ出してきた。
「僕遊びに行ってもいいの。」
「後になさい。」と保子は答えた。「井上さんがお帰りなさるんだから。」
「井上さんの所へ行くんだよ。」
「そう。でも今日はお止しなさい。またこの次にしたらいいでしょう。」
「この次にはついて行ってもいいの。」
「ええ。」
隆吉は暫くじっとしていたが、つまらなそうな顔をして其処に寝転んだ。
周平は息苦しい気がした。立ち上って二階の室に上った。着物の包みを枕にして横になった。うち開いた東の窓から、眩しいほどの日の光りが室の中に流れ込んでいた。彼は立ってその窓を閉めた。暫くすると、またその窓を開いた。何れにしても落着かなかった。気持がじりじりしてきた。
女中が彼を呼びに来た。表に俥《くるま》が一台待っていた。彼は喫驚した。
「歩いて行きます。」と彼は保子の前に云った。
「いいから乗っていらっしゃい。」と保子は云った。
彼は云い張った。僅かな風呂敷包み一つだし、そう遠くもないし、それにまた、俥になんか乗って行きたくないと。然し保子は承知しなかった。
「あなたは、」と保子は云った、「私に恥をかかせるつもりですか。」
周平はその言葉を胸の真中に受けた。顔を伏せると、俄に涙が出てきた。
「乗って行きます。」と後は云った。
「そして、昨晩の約束を忘れないようになさい。」
周平は顔を挙げた。瞬間に、保子はつと身を飜して、玄関に出て行った。
周平は首垂れながら彼女の後についていった。無言のままお辞儀をして俥に乗った。保子と隆吉と女中とが其処に立っているのをちらと見やっただけで、また頭を下げた。
二十三
突然のことだったので、下宿では室の掃除も出来ていなかった。周平はつかつかと、閉め切った薄暗い自分の四疊半にはいった。黴臭い厭な匂いがした。箒と払塵《はたき》と雑巾《ぞうきん》とを持った女中が、慌てて駈けてきた。周平は長く廊下に待たせられた。掃除がすんで室にはいったが、先刻の黴臭い匂いが鼻についていた。彼は窓をすっかり開け放してぼんやり外を眺めた。雲の影一つない青い空が、遠くへ彼の視線を吸い込んでいった。彼は眼の底が痛くなるのを感じた。
彼は俄に思いついて室の中を片付けた。片付けるといっても、机と小さな本立と柳行李とだけだった。それが済むともう何もすることがなかった。みすぼらしい身の廻りが淋しかった。手拭を下げて銭湯に行ってきた。それから、室の中に寝転んで一日を過した。二時頃から窓に一杯西日がさした。その光が夕方俄に陰って、空が曇ってきた。そして暗い夜となった。空の中が蒸暑くて息苦しかった。
周平は身を動かすのが堪らないような気がした。身を動かす度に心の中の空しい寂寞さがゆらゆらと揺《ゆら》いで、自分の身体を包み込んでしまいそうだった。じっとしていたかった。何物にもそっと手を触れないでいたかった。
むりに頭の働きを押えつけ、凡てを失ったという気持だけを懐いて、彼は早くから床にはいった。そしてぐっすり眠った。
その眠りが、翌日になってもまた彼を囚えた。朝食後じっと机にもたれていると、いつのまにかうとうととしていた。ほっと眼を覚して、此度は寝転んでみたが、やはりいつしかうとうととしていた。眼を覚してるだけの気力が無くなったかのようだった。しまいに彼は、そのだだ白い眠りの中に身を投げ出した。
そういう睡魔の下から、保子のことが影絵のように浮き上ってきた。うつらうつらとした夢心地の薄暗い背景から、彼女の澄み切った眼がじっとこちらを覗いていた。周平は云い知れぬ心の戦《おのの》きを感じた。彼女の前にひれ伏したい気持ともはやそれも許されないという意識とが、彼のうちで入り乱れた。彼は彼女との約束を思い出した。彼女の最後の言葉がはっきり耳に響いてきた。
彼は自ら云った。「もう万事終ったのだ。彼女の寛容に、このうえ甘えることはそれを涜すことなのだ。自分は自分一人の途を進もう。彼女との約束を心に秘めて、それを力として、自分一人の途を進もう。」
それは何とも云えない悲壮な感激だった。周平は初めて眠りから覚めたような心地で、自分のまわりを見廻した。貧しい淋しい室一つが自分のものだった。
彼は立ち上って腕を打ち振った。泣きたいような気持が寄せてくるのを強いて郤けた。そして野村を訪れてみた。これからの生活を確めておくつもりだった。
野村は丁度その晩家に居た。
「やあ珍らしいですね。どうしたんです、暫く来なかったが。何か面白いことでもあったですか。」
そういう風に彼は周平を迎えてじっと顔を見戍った[#「見戍った」は底本では「見戌った」]。
周平は妙に
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