を忘れようとした。
 その時、彼女はつと立ち上った。一寸佇んで、それから静に室を出て行った。彼は涙のうちに一人残されたのを知った。
 彼は永い間そのままじっとしていた。頬の涙が乾くと、夢からさめたように室の中を見廻した。机の上の紙とペンとが眼に留った。彼はそれを安らかな心で眺めた。彼女に対する気持が、たとえ恋であるにせよないにせよ、それはもうどうでもいいことのように思えた。
 彼はほっと息をついた。彼女から凡てを知られてることが、しみじみと胸にこたえてきた。そして何のわだかまりもなく彼女のことを想い耽っていると、最後の約束が頭に浮んできた。そこで彼ははたと行きづまった。彼女は何でああいう約束を強いたのか? 彼を救うためなのか、彼女自身の身を護るためなのか、或は愛情の保証を間接に与えるためなのか?……その何れとも判じ難かった。彼は新らしく謎を投げかけられたような気がした。
 思い惑っているうちに、彼女と対坐したことまでが夢のようにも感ぜられた。交わした言葉は短かったけれど、間々に沈黙がはさまっていたので、可なり永い時間に違いなかった。それが今考えると、僅か一二瞬間のことだったとしか思えなかった。その上凡てが余り静かに落着きすぎていた。宛も水中で起ったことのようだった。……然し、夢である筈はなかった。
 耳を澄すと、しいんと夜が更けていた。彼は立ち上って蒲団を敷いた。小用《こよう》を足しに下りていった。階段に一歩足をかけると、そこの板がきしった。彼はぎくりとした。その後で、何のために驚いたのか自分でも分らなくなった。それでも彼はやはり、息を凝らし足音をぬすんで、そっと歩いていった。その姿が我ながら惨めで堪らなかった。何を憚ることがあるのかと自ら云ってみたけれど、向うの室に保子と隆吉とが寝てるということが、しきりに気に懸った。
 匐うようにして自分の室にまた上ってきた時、彼は妙に惘然としてしまっていた。急いで寝間着に着代えようとした。所がその寝間着が見つからなかった[#「見つからなかった」は底本では「自つからなかった」]。押入の中から布団の間々まで、あちらこちら探してみた。するうちに、机の横の風呂敷包みにはいってることを気づいた。彼はじっとその包みを見ていたが、堪らなくなって着物のまま布団にもぐり込んだ。
 保子さん! 彼はそう心の中で彼女の名を呼んでみた。夢の中の女にでも呼びかけるような心地だった。現実と夢との境がぼやけてしまった。眼覚めてるのか眠ってるのか分らない気持だった。何かをしきりに考えてるのが、いつのまにか悪夢のような形を取り、そしてうとうとしてるかと思うと、またはっと眼覚めた、そういうことを何度もくり返した。

     二十二

 周平がはっきりした意識に返った時、室の中は薄暗かった。電燈が消えて雨戸の隙間から明るい光りが洩れていた。彼は驚いて飛び起きた。雨戸を一枚開くと、朝日の光りがさっと浴せかかった。彼はくらくらとした眼を閉じて、それをまた開いた。東の空に太陽が昇っていた。その強い光りに縫われて、薄い靄が低く流れていた。
 彼はその景色に暫く見とれていた。それから深く呼吸をした。日の光りの下で考えると、前夜のことが頭の奥へ潜み込んでしまった。そしてただ、万事終ったという捨鉢な気持だけが残った。
 彼は室を片付けて、階下に下りていった。
 保子はもう起きていた。彼の顔をじっとみながら云った。
「相変らずの寝坊だわね。」
 周平は弁解しようとした、昨晩よく眠らなかったからだと。然しその言葉が喉につかえて出なかった。ちらりと彼女の方を見ると、彼女はいつもの通りの落着いた平静な顔をしていた。心もち見開いてる眼が、明るい外光を受けた睫毛の影を宿して、夢みるような美しさを持っていた。周平は眼を外らした。
 隆吉をも交えて三人で食事をする時、食後一寸茶の間に坐っている時、周平は顔を伏せて黙っていた。変な気持だった。間もなくこの家を出て行くのだと分っていながら、それが遠い未来のことのような気がした。保子は何とも云わなかった。
 周平は立ち上って二階の室を見廻してきた。庭の中を歩いてきた。新聞を隅から隅まで読んだ。――そういう自分の姿が、何だか図々しく自分の眼に映じた。
「もう帰ります。」と彼は云った。
「そう。」と保子は静かに云った。「でもまだ早いわよ。ゆっくりしていらっしゃい。」
 彼女が何と思ってるのか、周平には更に見当がつかなかった。前夜の約束がまた頭に浮んできた。じっとして居れなくなった。
「もう帰っても宣しいでしょう。」と彼はまた云った。
「ええ、今すぐよ。一寸待っていらっしゃい。」
 それでも彼女は落着き払っていた。やがて、女中が食事を済し後片付けをした頃、彼女は立っていった。すぐに戻ってきて、周平の顔をまじまじと見
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