ぎごちない気持で座に就いた。野村からいろんな話をもちかけられるのに、ともすると的外れの返事をしそうな気がして、口を噤みがちだった。
「あ、そうそう、」と野村は初めて思い出したように云った、「君は横田さんの家へ留守に行っていたが、まだ続いて居るんですか。」
「いえ、二三日前下宿に帰ってきました。」
「どうして? 来月の初めまでとかいうことではなかったですか。」
「所が、奥さんと隆ちゃんとが急に戻って来られたものですから、僕も引上げたんです。」
「引上げるはよかったな。……そして、やはりこれからも教えに行くんでしょう。」
「そうですね……。」と云いかけて周平は言葉を途切らした。何と云っていいものか一寸分らなかった。暫くして続けた。「隆ちゃんは非常に頭がよくて、別に教える必要がないものですから、僕は断ろうかと思っています。勿論あの仕事は横田さんの好意からですけれど、無駄なことをして報酬ばかりを貰ってるのは、余り向うの好意に甘えるような気がして、実は心苦しいんです。」
「そしてどの位貰っています?」
「月に二十円です。」
「それ位のことなら、黙って貰っといていいじゃないですか。」
「ですけれど……。」
 周平は説明に困った。今後の生活を確かめにやって来たのだけれど、横田の方を止すかも知れないという口実は考えていなかったのである。然し、それからでなければ問題にはいっていけそうになかった。彼は自分の迂濶さに気づいた。さりとて、保子のことをうち明けられもしなかった。眼を伏せて考え込んでると、野村の方から尋ねかけてきた。
「何か気まずいことでもあるのですか。」
「別にそういう訳でもないんですが。」と周平は答えた。
「実はね、君に相談しようと思ってたことがあるんです。」
 周平は黙って野村の顔を見上げた。
「今月のはじめ、横田さんの家へ君を訪ねていったことがあるでしょう。あの時実は君に話があったんです。然し君が、変に何か考え込んで、気乗りのしない風をしていたものだから、それに急な話でもなかったから、僕は黙って帰って来たんですが……。何か心配なことでも起ったのですか。」
「どんな話です?」と周平は向うの問いに構わず尋ねた。
 野村はなかなかそれを云い出さなかった。月々どれ位でやってゆけるかとか、きりつめたらどうだとか、そんなことに話を向けていった。その眼には、何だか気の毒そうな色が浮んでいた。周平は漠然と或る不安を感じだした。
「生活はどうにでもなるんでしょう。僕はあるだけのものでやっていく覚悟をしています。」と周平は云った。「ですが、今の、話というのは一体どんなことですか。」
「どうって、まだはっきりしたことではないが……漢口《はんこう》の水谷さんから手紙が来たんです。」
 そして彼は、机の抽斗から一通の信書を取出した。
 周平は差出された手紙を披《ひら》いて読んだ。――初めには時候の挨拶から、毎度井上が世話になる礼が述べられていた。「扨て甚だ唐突の儀に候えど」として本文にはいっていた。支那人の排日熱のため商況が俄に不振となり、加うるに暴動があったため、水谷の店も多大の打撃を蒙って、今後の送金は意に任せないかも知れない、としてあった。やがて恢復の途もあろうけれど、目下の所は全く見当がつかないので、こちらからの送金は出来得る限り心掛けておくつもりではあるが、不時のものとして予算に入れずに、他から学費を得る方法を講ずるよう、井上へもよく申し聞かせ、なお御尽力を願いたい、と認めてあった。「場合によっては貴下の事情も本人へ御話相成、心して進むよう何分の御指導を煩わし度、」というようなことがあって、実は井上へ直接申してやるべきだが、「御承知の如き小心者故」悲観するといけないから、折を見てとくと話して頂きたい、と結んであった。
 周平は――我ながらそれを変な気がしたが――大した打撃をも感じなかった。いつかはぶつかるべきものにぶつかったという気持だった。彼は注意して二度くり返し手紙を読んだ。そして野村の顔をじっと眺めた。野村も黙って彼の顔を見返した。
「この後に便りがありましたか。」と彼は尋ねた。
「他のことで一度手紙が来たですが、よほど困っていられるらしいです。それでも、一週間ばかり前に、君へやってくれと云って三十円送って来ました。」
 それから野村は暫く黙っていたが、突然こんな事を云い出した。
「手紙の中に、僕の事情も君へ話してきかして指導してくれ、というようなことがあったでしょう。それはね、借金をしてはいけないという意味ですよ。」
 野村の語る所に依れば、彼は大学卒業前に少し無駄使いをして高利の金を借り、それがまだ千円余り残っていて、月々六分の利子の支払いにさえ追われてる始末だそうだった。――どうして水谷がそれを知ってるかといえば、知人の令嬢を妻に世話
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