れない気持で、一人で室から逃げ出し、外廊の柱によりかかっていましたが、長い間たったと思える頃、柳秋雲が足音をぬすんで駆け寄ってきました。彼女は汪紹生の顔を見つめて、「お約束のものは……。」とぽつりといいました。汪紹生は内隠しから拳銃の包みを取出しました。柳秋雲はそれを受取って、懐にしまいました。そしていいました。
「私の……すべてを、信じて下さいますか。」「信じます。」と汪紹生は答えました。柳秋雲は片手を差出しました。汪紹生はその手を強く握りしめました。そして薄暗がりの中で、柳秋雲の眼が次第に大きくなり、妖しい光を湛えて、更に大きく更に深くなるように、汪紹生には思えました。彼はその眼の中に溺れかけました。とたんに、柳秋雲は手を離して、風のように立去ってゆきました。――その時の、まるで幻覚のような印象は、非常に強烈なもので、汪紹生は我を忘れ、そこの柱に身をもたせて、いつまでも凝然としていたのでありました。
高賓如はちょっと汪紹生の様子を眺め、荘一清の方をも顧みましたが、何ともいわずに、先に立って室の中へはいってゆきました。
麻雀の一組はゆっくり遊んでいました。他の片隅では、紫檀の器具と青磁の置物と朱塗りの聯板と毛皮の敷物とにかこまれて、呂将軍と方福山が酒をのみながら話をしていました。柳秋雲と方美貞との姿は見えませんでした。
高賓如は真直に呂将軍の方へ行きまして、煙草を一本手に取っていいました。
「胃袋の強健な者ほど勇気が多い、という閣下の説によりますと、どうも、吾々若い者の方が勇気に乏しいようです。」
呂将軍は笑いながら髭をなでました。どこからかいつのまにかそこへ出て来た何源が、高賓如の煙草の方へマッチの火を差出しました。
なか一日おいて、午後、柳秋雲がふいに荘家へ訪れて来ました。――荘大人がお身体がわるい由だからお見舞に、というのでしたが、それはただ口実にすぎないことは明らかでありました。
方福山からの招待には、身体は何ともなかったが、少し差支えがあって出られなかった、とはっきり荘太玄がいうのを、柳秋雲はそれについては返事もせず、よく解っているということを示しました。
荘太玄と夫人とは、やさしい笑顔で彼女に接し、彼女も心安らかな態度でありました。荘一清はちょっと挨拶をしたきり、どこかへ出て行きました。
方福山のところの宴会の話を、荘夫人が尋ねますと、柳秋雲はあの歌のことを自分からいい出しました。
「呂将軍が、芝居の歌が大変お好きだから、なにか美しいのを歌うようにと、前の日から頼まれておりました。それで私、恥しい思いを致しましたが、その仕返しに、美しい歌の代りに悲しい歌をうたってやりましたわ。」
「何をうたったんですか。」
「四郎探母の俗謡ですの。」
荘太玄は憐れみのこもった眼で彼女を眺めました。荘夫人はいたわるようにいいました。
「でも、よくそんなのを覚えていますね。」
「ふだん教わっておりますの。」
そして彼女は、歌の先生のことを話しました。――それは戯曲学校の年とった先生で、一週に一回ずつ教えに来るのでした。柳秋雲の声をひどくほめて、女優になれば必ず成功すると保証してくれました。然し彼女を戯曲学校に入れることは、陳慧君がどうしても承知しませんので、彼も諦めましたが、それからは、歌曲はその芝居を知っていなければ本当にうたえるものではないといって、稽古の時には必ず、自分でその芝居の所作をやってみせました。というのも、陳慧君はどうしたわけか、柳秋雲に芝居の歌を習わせながら、決して芝居を見ることを許さず、一度も戯院へ行かせませんでした。
その歌の先生について、面白いことがありました。或る時、陳慧君と二人の談話のなかで、真珠を粉にしたものをのめば肌が最も綺麗になるという説が、思い起されまして、先生はそれを真実であると主張し、有名な俳優でそれを実行してる者もあると確言しましてから、是非ためしてみられるようにと陳慧君に勧めました。陳慧君は心を動かされたらしく、真珠の粉の効果の真否を、いろいろの人に尋ね、それぞれの意見を、柳秋雲にも伝えて相談しました。すると柳秋雲はいいました。
「歌の先生は、きっと、真珠を沢山持っていらして、売りたがっていらっしゃるのでしょう。買ってあげましょうよ。」
その言葉で、真珠の粉の説は立消えになってしまったのでした。
それを聞いて、荘太玄は愉快そうに笑い、荘夫人は感心して眼を細めました。
けれども、柳秋雲にいわせますと、彼女のその小さな皮肉も、実は荘太玄を学んだものでありました。
嘗て、市長が荘太玄を訪ねて来まして、市長に推挙されかかったこともある彼に、北京繁栄策をいろいろ話し、ついでに、名所旧跡や記念建造物への観光客を世界各地から誘致するための、有効な方法をも相談しました。すると、荘太玄は別な答え方をしました。紫金城や万寿山よりも、五塔寺の古塔や円明園の廃墟の方が、優れた鑑賞者に喜ばれるとすれば、全市廃墟になった後の壮大な城壁こそ、最も優れた鑑賞者に最も喜ばれることでしょう、といったのでした。そしてこの全市廃墟の皮肉は、当時、新新文芸の仲間の話題となっていました。
そのことを柳秋雲から思い出させられて、荘太玄夫妻は顔を見合せて微笑しました。
そして柳秋雲は、なごやかな打解けた空気のなかで、荘太玄夫妻に甘えてるかのようでしたが、突然、荘夫人に悲しそうな眼を向けました。
「私、家へ戻りましてから、あまり刺繍[#「刺繍」は底本では「剌繍」]をする隙がございませんの。それで……。」
それで、お詫びをしておきたいというのでした。彼女は荘家にいた時、荘夫人から刺繍[#「刺繍」は底本では「剌繍」]を教わっていまして、上達も早かったのでしたが、家へ戻ってゆく時に、今後いつか花鳥の立派なのを仕上げてお目にかけると、約束したのでありました。その約束がいつ果せるか、また永く果せないか、自分でも分らなくなったから、許して頂きたいというのでした。
「まあ、そんなこと、どうでもいいんですよ。つまらないことを気にしてるんですね。」と荘夫人はいいました。
それでも、柳秋雲は悲しそうな眼色をしていました。そして此度は、荘夫人がいろいろ話をしてやらなければなりませんでした。
そうしたところへ、荘一清がとびこんで来ました。
「柳秋雲さんは、ちょっと僕達の方へ借りますよ。汪紹生も来てるんです。新新文芸のことで打合せをしたいんです。」
「まあ、なんですか、ぶしつけに……。」と荘夫人はたしなめました。
「ははは、若い者同士の方が話は面白いかも知れない。」と荘太玄がいいました。
それで荘一清は、黙って俯向いている柳秋雲を促して、室の外へ、そして庭の方へ出てゆきました。
庭の腰掛に、汪紹生は腕を組んで頭を垂れていました。彼は荘一清からの至急な迎えを受けて、図書館からやって来たのでした。柳秋雲の姿を見ると、彼はつっ立って会釈をしたきり、言葉は発しませんでした。柳秋雲も黙っていました。
「どうだった、気に入ったの。」と荘一清がふいにいいました。
「なんですの。」
「あれ……玩具さ。」
「ええ、素敵ですわ。今日は、そのお礼に参りましたの。」
「でも、よく一人で来られたね。」
柳秋雲は曖昧な表情をしました。
「僕達、心配していたんだよ、なんだか気になってね……。」
荘一清は快活な調子を装っていましたが、それきり言葉をとぎらしました。
そして三人は、無言のうちに広庭を歩いてゆきました。暫くして、柳秋雲はちらと汪紹生の方を窺って、突然いいました。
「私、旅に出るかも知れませんわ。」
「え、旅だって……。」と荘一清が尋ねました。
「ええ、駱駝に乗って、長城の上を歩くという夢……あれが、ほんとになるかも知れません。でも……もう玩具も頂いたし……淋しいことも、心配なこともありません……。」
そのゆっくりした調子には、真面目とも戯れとも判じかねるものがありました。
「また、夢の話だろう。本当なら、僕達も一緒に行ってもいいよ。」
「まだ、夢だか、本当だか、よく分りませんの。」
「だから、夢のような話さ。」
それきりまた言葉が絶えました。今までの言葉もすべてなにかごまかしだったことが明らかになるような沈黙が、長く続きまして、二人は池のところまで来ました。
その時、柳秋雲は立止って、苦悩ともいえるほどの緊張した顔付きで、きっぱりといいました。
「あの晩、私は歌をうたいました。今日、も一度、歌をうたいたくなりました。」
返事を躊躇してる二人をそのまま、彼女は池の中間の小亭へ上ってゆきました。その、「北冥之鯤、南冥之鵬」という聯がついてる小亭からは、遙かに、北海公園の小山の上の喇嘛の白塔が見えました。荘太玄はその眺めをあまり好まず、樹木を植えて展望を遮ろうかといったことがありますが、夫人や一清の反対で、そのままになっていたのであります。その遙かな白塔に、柳秋雲は暫く眺め入りました。
朗かな秋の青空に、白塔は今、幻のように浮んで見えました。柳秋雲はそれに眼を据えながら、静かにうたいだしました。
その歌の文句は、はっきり伝えられておりません。それは、柳秋雲が作ったものでありまして、稚拙だが純真で、一脈の清冽さを湛えていたということです。白塔を心の幻に見立てて、それが青にも赤にも紫にも塗られていないことを、淋しみまた嬉しむと共に、いつまでも斯くあれかしと希い、愛情を尊敬してただ黙って去ろう、というのでありました。――その最後の句は、明らかに汪紹生の詩から取って来られたものでありました。
歌調は単純でしたが、彼女の声は美しく澄んでいました。その時彼女は、何の髪飾りもなく服も質素でありまして、遙かな白塔に見入ってるその姿は、都塵を離れた清楚さを帯びて、歌曲にふさわしいものでありました。
全体に、秋の爽かさがありました。
歌がすんでも、彼女は暫く動きませんでした。荘一清と汪紹生は、爽かな気に打たれたようで、無言のまま歩み寄りました。そして振向いた彼女と、三人で顔を合した時、三人とも、なにか茫然とした恍惚さのなかで、微笑を自然に浮べました。
召使の者が紫檀の茶盆を運んで、大きな太湖石の蔭から出てくるのが、見られました。柳秋雲は急に、その方へ駆け出してゆき、荘家にいた頃のように、女中の茶盆を受取って運んで来、なにかお菓子を頂いて来るといい置いて立去りました。
荘一清と汪紹生は、彼女が戻って来るのを、静かな沈思のうちに徒らに待ちました。然し彼女はもう、荘太玄夫妻に挨拶をして帰っていったのでありました。
その翌日の深夜から、次の朝にかけて、呂将軍の急死が市中に伝わりました。脳溢血による頓死だとのことでありましたが、何か怪しい影が感ぜられて、不安な不穏な空気が濃くなりました。そのなかで、高賓如大佐によって、軍隊の方はぴたりと押えられ、市内の動揺の気配も鎮められまして、それがあまり手際よくいったので、変事前から準備が出来ていたらしいとの風説さえ立ったほどでした。そればかりでなく、高賓如はその激しい時間を一時間ほど割いて、荘家を訪れ、心痛している荘一清と汪紹生とに、変事の真相を伝えてくれました。しかも彼の荘家訪問は、公然となされましたので、やがてそれが、周囲の人々の心を落着ける結果をも斎したのでありました。
変事の夜、柳秋雲は陳慧君に伴われて、呂将軍の宿舎を訪れたのでした。高賓如大佐が軍服姿で出迎え、陳慧君はすぐ辞し去り、あとは二人きりになりました。
「よく決心がつきましたね。」と高賓如はいいました。
「前から決心しておりました。」と柳秋雲は答えました。
高賓如の説明によりますと、この決心というのは、或る特別の任務につくことを意味するのでした。彼はこういいました。「局面が一大転換をして、人心が動揺している時、若い美しい女性の声が如何に大きな作用をなすかは、想像以上のものがある。社会に働きかける人々はこのことをよく知っているが、軍人はあまり知らないとみえて、これを利用した者は殆んどない。然るに呂将軍は、この方法をも
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