用件がある時は、僕の家へ来て下さい。あんなところへ来て、あれは誰だと聞かれたら、あなたも困るし、僕も困る場合が、ないとも限らない。隠れ家では、すべて身元を明るくしておく必要があるんです。」
「それでは、隠れ家の意味をなさないね。」
「そうです、あべこべになっちゃった。呂将軍の影響ですね。呂将軍のクーデタの噂が、相当に拡まっていましょう。そのため、スパイがばらまかれている。あの連中ときたら、秘密は隠れたところにばかり転ってるものと思ってますからね。秘密の方で先手をうって、明るいところへ移動したってわけですよ。あなた方も、何かやるなら、この戦術を使うんですね。ところで、あなた方は、どちらと連絡があるんですか。」
「連絡……そんなものはどこにもない。」
「あなた方になくても、先方からつけてくる。用心しなけりゃいけませんよ。本当の吾々の味方は、呂将軍の方にも、省政府の方にもない。」
「ではどこにあるんだい。」
 黒眼鏡の青年は、鋭い視線をちらっと汪紹生に注ぎました。
「なかったら、拵えるんですね。すぐ、手近なところに出来ますよ。いや、もう出来てますよ。面白いことになりそうです。」
 丁度、楊柳の並木がつきて、橋のところに出ました。黒眼鏡の青年は、突然いいました。「では、ここで失礼します。」
 彼がまるで未知の間柄のように素気なく立去ってゆくのを、汪紹生はちょっと見送りましたが、ぼんやり、反対の方へ歩いてゆきました。

 方福山の招宴には、さすがに吟味された料理が用意されていました。豚や家鴨や小鳥や野菜類はまあ普通として、江蘇の沼から来たもの、四川の山奥から来たもの、日本の近海から来たもの、南洋の小島から来たものなど、相次いで食卓に並びました。ただ飲物の方は、老酒に炭酸水に冷湯だけでありました。何源が適宜に立現われ、一隅に直立して、万端の指図をしました。
 宴席での方福山の活躍は、料理よりも一層見事でした。彼は背が低く、食卓に屈みこんでいるので更に低く見えましたが、それが却って、強い眼の光と相俟って、容易ならぬ人物だと思わせるのでした。その顔は細長い方で、頬から下へゆくにつれてふくらみ、口の両側に贅肉が目立ち、※[#「臣+頁」、第4水準2−92−25]下の皮膚が垂れて、それが半ば襟に埋まっていました。そして彼は極めて素早く飲み食いし、あたりの人々にたえず話しかけました。一方に呂将軍がおり、他方に方家同族の老人がいましたが、方福山は始終両方へ顔を向け、少し離れてる高賓如大佐や荘一清などへも呼びかけました。食物のこと、風俗のこと、上海のカニドロームやハイアライのこと、広東の黒人風呂のこと、印度奇術のことなど、ただとりとめもない事柄で、それを彼は旅の土産話として聞かせるのでした。そしてあちこちへ向けられるその眼には、時折、穏かな笑顔を裏切って、それらの話とは全く別個な、そして六十近い年配とは思えないなにか底強い光が、人の肺腑を貫くようにちらと輝きました。
 彼のそばで、呂将軍は山のように泰然としていました。ゆっくり物を食べ、ゆっくり酒を飲み、余り口を利かず、大きな体躯をどっしりと落着かせていました。けれども、長い髭は力なく垂れ、顔の色はくすみ、眼はどんよりとしていました。彼の阿片嗜好はひどく昂じてるとの噂がありました。
 方福山が初め、荘一清と汪紹生とを紹介しました時、彼はただ眼を二三度まばたきしただけで、二人の顔はよく見ないで、呟くようにいったのでした。
「君達のことは前から聞いていた。わしは君達を、いつも洋服を着てるものと思っていたよ。」
 荘一清が曖昧な微笑を浮べて、鄭重な調子で答えました。
「私はまた、閣下はいつも軍服を召していられることと、思っておりました。」
 その言葉のあと暫し時を置いてから、呂将軍は突然、はっはっはと大きな声で笑いました。
 側にいた高賓如はちらと眉をひそめました。汪紹生はびっくりしたように呂将軍の顔を見上げました。呂将軍はなお得意気にも一度高笑いを繰返しました。
 平服をつけてることが、呂将軍を、へんに如才ないようにまたは愚鈍なようにも見せるのでした。
 食卓で、呂将軍はまた同じような高い笑いをしました。食物の話の時、彼は珍らしく言葉を続けて、嘗て太原で経験したという事柄を披露しました。――饑饉の年のことでしたが、数名の僚友と、そこの料理店で飲んでいますと、豚肉の煮込みの皿の中から、人間の足の爪が二つ三つ出て来ました。一同は酔っていましたので、その爪を興がって、酒杯に入れて乾杯したというのです。
 その話のあと、ちょっと言葉がとだえました時、呂将軍ははっはっはと高笑いをしました。
 すると、少し離れた席から、陳慧君の声が聞えました。
「まあ、閣下は、作り話もお上手でいらっしゃいますこと。」
 呂将軍はまたはっはっはと笑いました。
 陳慧君はもう、そばの方夫人に話しかけていました。
「蛸の足に、あのまるい、吸いつくものが、沢山ありますでしょう。あれだけを取って、干し固めましたものを、奥地の特別な蔓だといって、アメリカの水兵さん達に食べさしていた家が、上海にありましたよ。大変繁昌しておりました。」
 方夫人はただうなずいて聞いていました。同席してる娘の方美貞は女学生風の快活さで、柳秋雲になにか囁いていました。ただ陳慧君だけが、女のなかでは一人、全席の話題の中心にも言葉を出すのでした。
 陳慧君の存在は目立ちました。彼女と方福山との関係は、方夫人にも既に公然と承認されてるようでしたが、そういうことを別として、社交に馴れてる彼女の挙措応対は、その敏活な眼の動きと、血の気の少い白く澄んだ皮膚と共に、品位は乏しいが人目を惹くものがありました。彼女はしばしば高賓如の方へ言葉をかけました。高賓如は簡単な返事だけをしておいて、おもに隣席の荘一清と話をしました。古典や近代文学にも彼は少しばかり知識がありました。
 汪紹生は殆んど口を利きませんでした。時々柳秋雲の方を眺めました。柳秋雲は無口でつつましくしていましたが、顔を挙げて汪紹生の視線に出逢うと、またすぐに眼を伏せました。
 そして、四時間余に亘る酒宴は別に事もなく運ばれましたが、方福山は突然呂将軍に向って、二人とも何の理解も持っていそうにない音楽の話を初め、あらゆる歌曲のうちでもやはり京劇のそれが最も優れているという結論を引出しました。そして彼は陳慧君に呼びかけて、如何にも自然な無造作な調子で、柳秋雲さんの歌を少し聞かして頂けまいかと頼みました。陳慧君は微笑んで、柳秋雲に何か囁きました。そして不思議にも、柳秋雲はすぐに立上ったのでした。方美貞が喫驚した眼で彼女を眺めました。
 柳秋雲は少し蒼ざめた顔を緊張さして、石のようにあらゆる表情を押し殺していました。そしていいました。
「私は歌妓ではございませんから、ごくつまらないものきり存じませんけれど……。」
 あとは声がつまったようで、そして横を向いて、宙に眼を据えながら、低めの声で歌い初めました。それは普ねく知られている歌曲でありまして、四郎探母という京劇のなかで四郎が母を想って歌う、ゆるやかな悲しい調子のものでした。
 宴席にふさわしくないその歌は、故意の皮肉かとも思われましたが、やがて深い感銘を与えました。彼女の声は次第に高まって、美しい哀切なものとなりました。髪飾りの宝石が、耳の後ろでこまかく震えました。彼女の横顔に目立つ※[#「臣+頁」、第4水準2−92−25]のとがりは、ひたむきな心情を示すようで、そしてその頬のふくらみは、やさしい愁いを示すようで、それが一緒になって、母を思慕する歌調を強めました。
 汪紹生が顔を伏せてるだけで、そして陳慧君が一座の空気を窺ってるだけで、人々は息をこらして、柳秋雲の上に眼を釘付けにしていました。呂将軍の眼もその時だけは生々とした色を浮べました。彼女はただ歌にだけ身も心も投げこんでるようでしたが、歌い終えると、やはり表情を押し殺した様子でちょっと会釈しましたが、そのまま、逃げるように足早く次の室にはいって行きました。
 方美貞がすぐ立上って、彼女の後を追ってゆきました。
 感嘆の吐息と声が洩れました。客の一人の中年の婦人は涙を拭きました。そして柳秋雲と方美貞とが戻って来ないのをきっかけに、よい工合に食卓は見捨てられることになりました。
 次の広間の片隅に、麻雀の一組が出来ました。方夫人と陳慧君と、歌のあとで涙を拭いた中年の婦人とに、方福山の隣席にいた老人が加わりました。
 汪紹生が一人で庭の方へ出て行ったようでしたから、荘一清と高賓如とは連れ立ってその方へ行ってみました。
 晴れやかな秋の夜で、星辰が美しく輝いていました。池のない広庭には、植込や置石が多く、築山の上の小亭にぽつりと電灯が一つともっていました。
 高賓如は両手を差上げ伸びをしてから、冷かな批判の調子でいいました。
「今晩の宴会には、欠けたものが一つあったね。」
「何ですか、それは。」
「君のお父さんが来られなかったことだ。」
「父は近来、ここの人達をあまり好まないようです。」
「それは当然だ。然し、ここの人達にしてみれば、君のお父さんは最も大切な客だった筈だ。」
「なぜですか。」
 高賓如は荘一清の方を振向いて、その真実怪訝そうな眼付を見て取ってから、いいました。
「考えてみ給え。荘太玄の名望と、方福山一家の財産と、それから君達自身はどう思ってるか知らないが、青年知識層の精鋭と見られてる一方の代表者たる、荘一清と汪紹生、それから自分でいうのも変だが、呂将軍の知嚢としてのこの高賓如、それになお、社交界の花形と独りで自惚れてる陳慧君、将来特異な才能を示しそうな柳秋雲をも加えて、それだけあれば、北京で大芝居がうてると思うのも、無理はないさ。」
「そんなことを呂将軍は考えてるんですか。」
「いや、考えてるものか。引きずられてはいるだろうが……。」
「では、誰が考えてるんです。方福山ですか。」
「方福山はまあ進行係というところだね。立案の方はどうやら陳慧君にあるらしい。とにかく、あの二人はいい組合せだ。」
「そして、あなたも、それに加担してるんですか。」
「僕が加担してたら、もっとうまくやるよ。柳秋雲に歌をうたわしたり、あれは可哀そうだった、あんなへまなことはしない。僕はただ傍観者にすぎないんだ。」
「傍観者……それでいいんですか。僕はあなたを軽蔑しますよ。」
「なあに、軽蔑は最後になすべきものだ。事の成行を楽しんで観てるという時機もあるさ。ただね、僕は君達に自重して貰いたいんだ。自重してくれ給え。お父さんが今晩来られないのはよかった。」
「父はそんなことを知ってるんでしょうか。」
「御存じではあるまい。然し、うっかり洩らしてはいけないよ。僕と君との間だけの秘密だ。」
「それは勿論です。だが……僕達、汪紹生と僕とを招かしたのは、柳秋雲だとばかり思っていました。」
「どうしてだい。」
「彼女も、僕達の仲間でしたから……。」
「だが、陳慧君のところに戻ってからは、彼女も相当変ったろう。それにまた、たとい彼女がいい出しても、それを取上げるかどうかは陳慧君の自由だからね。陳慧君は育て親として、彼女の上に絶対の権力を持っている。」
「それを、あなたは承認しますか。」
「事実の問題だ。第三者の否認なんか、当事者には何の役にも立たない。」
「ひどく冷淡ですね。」
「女の問題について冷淡なのは、僕の立前だ。女はどうも危険だからね。」
 そして高賓如は朗かに笑いました。
 その時、二人は庭を一廻りして、室の方へ戻ってゆくところでしたが、そこの、外廊の柱によりかかって、柱にそえた彫像のように佇んでいる汪紹生に出逢いました。
 汪紹生は潜思的な固い顔を少しも崩さず、荘一清にぶっつけるようにいいました。
「あれは済んだよ。」
「そうか。」と荘一清は答えました。
 高賓如を憚って、二人はそれっきり何ともいいませんでしたが、拳銃の一件だとはっきり通じたのでありました。
 汪紹生はまだすっかり自分を取戻していないようでした。――彼は何か堪えら
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