ことになりました。
 陳慧君はその店の奥に秘蔵してる書画のことで、また方福山を通じて、荘家とも誼みを結んでおりました。そして或る時彼女は、荘夫人の前に、恰も懺悔でもするような謙虚な調子で、自分の頼りない身の上を歎き、これまでの軽薄な行動を悲しみまして、次に柳秋雲のことを持ち出し、由緒ある家柄の憐れな孤児だが、彼女を立派に育てるのが衷心の願いであるといって、荘家の淳良な家風のなかで暫く彼女を教養して頂きたいと頼みました。それから彼女は声を低めて、ひそやかにいいました。
「こちら様が市公署の方を御引受けになりますれば、いろいろ人手も御入用でありましょうし、秋雲を女中同様に使って頂きとうございます。また私としましても、あの子を御手許に預けておきますれば、安心して当分上海で過すことが出来ます。」
 その頃、市長が或る事で引責辞職しまして、後任には、徳望高い荘太玄を引出そうという運動が起りかけていました。また陳慧君の方は、なにか政治上の秘密な役目を帯びてという説もありますし、阿片密輸に関係あることが現われかけたからという説もありますし、両方を一緒に結びつけた説もありますが、当分の間上海に行くことになっておりました。ところが、荘太玄は市長の役目を冷淡に固辞してしまいましたし、陳慧君の上海行きは延び延びになっていつしか立消えてしまいました。そしてただ、柳秋雲が荘家に委託されることだけが実現しました。
 それから十ヶ月の後、新緑の頃、アメリカから来た老人夫妻の漫遊客を案内して、陳慧君と方福山とは泰山へ出かけました。その一行に、方福山の娘の美貞が加わり、ついては柳秋雲も加わることになりました。その旅から帰って来た時、陳慧君は急に熱を出し、多分の喀血をしました。彼女は苛立って、しきりに泣いたり怒ったりしました。その機会に、柳秋雲は荘家から陳慧君の許へ戻ることになりました。
 荘家へ来ました当時、柳秋雲は、その世馴れた態度と内気らしい寡黙さとがへんに不調和でありまして、眼差には冷徹ともいえるような光を宿していました。然し間もなく彼女は、荘家の温良な雰囲気になずんできまして、その態度には快活さが加わり、その寡黙さは要領を得た言葉と変り、その眼差の光は和らいできました。荘夫人は彼女に興味を持ち、侍女とも娘分ともつかない地位に置きました。美しい彼女の顔立は、横から見れば※[#「臣+頁」、第4水準2−92−25]のとがりが目立って怜悧そうであり、正面から見れば頬のふくらみが目立って柔和そうでありました。
「あんたは時おり、別々な二人のひとに見えますよ。」と荘夫人は微笑して秋雲の顔を眺めることがありました。
 その別々な二人のひとが、やがて、一人のひとにまとまって、新時代の若い女性を形造るようになりました。荘家の温良な雰囲気はまた新時代の自由性をも許容するものでありまして、荘太玄の高い学徳を山に譬えれば、その麓には、荘一清を中心にした新新文芸一派の若芽が自由に伸びだしていました。汪紹生は殆んど日曜毎にやって来ましたし、其の他の青年達が、時には女性も交えて、集ってきました。そしてそれらの人々に、柳秋雲も立交るようになり、遂には仲間の一人と数えられるようになりました。
 柳秋雲は新新文芸を愛読しながら、自分では一度も文章を書いたことがありませんでした。また、その思想的な論議に加わることもありませんでした。然し彼女の控え目な言葉は、いつも強い熱情の裏付けがあり、そして形象的でありましたので、この一派に不足がちな感覚的要素を加える働きをしました。彼女の言葉から示唆されたと覚しい文章も、幾つか拾い出すことが出来ました。例えば、散るためにのみ美しい蓮の花を讃美する者は誰ぞ、伸びそして拡がるために美しい蓮の巻葉の香を知る者は誰ぞ、という質問が提出されていました。槐の並木の白い小さな花が、はらはらと街路にまきちらす感傷主義を、土足で踏みにじり得る者は果して誰ぞ、という質問もありました。黄塵にまみれた古い洋車に、磨きすまされたランプがつけられている象徴を、理解する者は果して誰ぞ、という質問もありました。
 それらのことに最も敏感だったのは、汪紹生でありました。また、彼女が荘家を去って陳慧君の許に戻ってゆくことについて、大きな損失を内心に最も感じたのも、汪紹生でありました。彼は一篇の詩を書いて、頬をほてらしながら荘一清に見せました。それは、友情と恋情との間の微妙な一線上にある惜別の感情で、「……沈黙は、愛情を尊敬するからだ。」と結んでありました。
 彼女が去ってゆく前の日曜日の午後、三人は、広い庭園をゆっくり逍遙する時間を見出しました。その時、荘一清が汪紹生の詩をふいに披露しましたので、汪紹生も柳秋雲もへんに沈黙がちになりました。それで、荘一清が一人で何かと饒舌らねばならぬ立場に置かれましたが、池の中間の小亭にさしかかりました時、その小亭の両の柱に、「北冥之鯤。」「南冥之鵬。」という句が懸っているのを指して、彼はいいました。
「昔の人は面白いことを考えたものだ。北冥の鯤だの、南冥の鵬だの、そんな伝説を僕は固より信用しはしないが、その精神には信頼すべきものがある。長城を築いたのも、大運河を掘ったのも、その精神の仕業だ。吾々は長城や大運河を軽蔑してもよろしいが、その精神を笑う権利は持たない。」
 それに対して、柳秋雲が静かにいいました。
「そうしますと、私の夢も、お笑いになる権利はありませんわ。」
「どんな夢……。」
「駱駝に乗って、長城の上を歩いてゆきました。」
「おかしい夢だな。」
「ところが、ふと気がついてみて、とても淋しくなりましたの。拳銃を持っていませんでした。私、あの冷りと光ってる、小さな拳銃が一つ、ほんとにほしかったのです。」
「それで、どうするつもりだったの。」
「どうもしませんわ。ただ持っておればよろしいんですの。歌をうたう時計や、枝から枝へ飛び移る金の鳥が、西太后の玩具だったとしますれば、新時代の女性の玩具は、拳銃であってもよろしいでしょう。」
「新時代の女性の玩具か、それは素敵だ。」
「では、その玩具を下さいますか。」
 荘一清は振向いて、彼女の顔を見ました。彼女の言葉の調子に、あまりにも静かな重みが籠っていましたし、その顔には沈鬱な色が浮んでいました。
 それまで黙って聞いていた汪紹生が、突然いいました。
「一体それは、夢の話ですか、本当の話ですか。」
「自分でも分りませんわ。」
 そして彼女は、汪紹生の眼の中へじっと視線を向けました。
「私は家へ帰りますと、全く違った生活のなかにはいります。けれど、いつまでも、あなた方の仲間でありたいと思っております。そのような時に、大事な玩具を一つ持っていることは………ただ持っているだけで、心の支えになるような気がしますの。」
 それは承諾を強要する調子であり、今にも泣き出しそうな表情でありました。汪紹生は顔を伏せました。
「二人で引受けよう。」と荘一清が叫びました。
 それで凡てが決定しました。
 けれども、その実現は延び延びになったのであります。記念の意味や将来への誓いの意味を持った約束は、当事者達だけで秘密に果さなければなりませんでした。そして、相当な額に上るらしい金をひそかに調達することは、荘一清にとって容易ではありませんでしたし、その頃取締りの厳しい品物をひそかに買い取ることは、汪紹生にとって危険でありました。

 北京の秋は、夏を追い立てるように急にやって来て、そして晴朗な日が続きます。南海公園の小島の岸には、まだ釣りの遊びをしている人々が見られました。その側に、少し離れて、汪紹生はぼんやり欄杆にもたれていました。
 釣りをしてるのは、二三の少年と、中年の夫婦者に連れられてる子供でありました。子供はよく餌を取られてはじれだし、父親からいろいろと教えられていました。母親はそれを笑顔で眺めながら、やはり釣竿を手にしていましたが、自分の浮子《うき》の方には殆んど眼をやりませんでした。少年達は黙って熱心に浮子を見つめ、時折、ぱっと挙げられる釣竿の先には、小魚が躍っていました。
 汪紹生は欄杆に半身をもたせたまま、薄濁りの水面に眼を落して、なにか考えこんでいました。亭の中に並べられている卓子の方へ行って茶を飲むでもなく、釣竿を借りてきて楽しむでもなく、また釣人たちの方を見てるのでもありませんでした。時間を忘れたように長い間じっとしていました。
 南岸との間を往復してる小舟から、小数の客が上ってきて、幾度か彼の後ろを通ってゆきました。それらの人々の間に、やがて、黒い色眼鏡をかけた痩せた青年が見られました。その青年は、舟から真直に汪紹生の方へやって来て、その肩に軽く手を触れました。汪紹生は振向きましたが、相手がそのまま歩いて行きますので、彼もその後についてゆきました。
「少し手間取っちゃった。」と黒眼鏡の青年は不機嫌そうに呟きました。
 汪紹生は尋ねました。
「そして、どうだった。」
「なあに、ちと無理なことをしたが……。」
 彼は歩きながら、汪紹生をじっと見ました。
「これからは注意して下さい。あんな所へ僕を尋ねてきて、それも夜遅く……。」
「然し、秘密な用だったものだから。」
「それがいけないんです。秘密は白昼公然の場所で為すべきものですよ。この頃、僕達は少し睥まれているんです。」
「何かあったの。」
「それは、こちらから聞きたいことですよ。あんなもの、何にするんですか。」
「ちょっと、人から頼まれたので……。」
「然し、こんなちっちゃいのは、役には立ちませんよ、玩具にならいいけれど。」
「勿論玩具だ。玩具だと僕は信じてる。」
 その調子があまり真面目だったせいか、黒眼鏡の青年はじっと汪紹生の方を眺めました。そして笑いました。
「あなたは正直だ、だから僕はあなたが好きなんです。……当ててみましょうか。若い女か老年の紳士か、いずれそんなところへ贈るんでしょう。」
 汪紹生は黙っていました。
「少しいいすぎましたか。なあに、心配はいりませんよ。」
 二人は中海の岸に出ていました。枯蓮の池は蕭条として、午後の陽に冷たく光っていました。楊柳の大木の並木の下には、通行の人もありませんでした。
 その楊柳の一本の影に、黒眼鏡の青年は急に立止って、内隠しから、小布に包んだ物を取出し、汪紹生に差出しました。
「お頼みのものです。古物だが、まだ使われてはいません。ちょっと錆びてたところは、僕が磨いておきました。」
 汪紹生はそれを受取りました。小布の中には、ボール箱に、革のサックのついた小型の拳銃がはいっていました。
「操縦は簡単だから、分っていますね。弾は十個だけあります。そいつが、実は厄介でしたよ。」
 汪紹生はそれをまた小布に包んで、内隠しにしまいました。そして紙幣を二十枚渡しました。
「それから、あとのは、どれほどあげたらいいかしら。」
「あとの……あああれですか。あれは、僕からいい出したんだから、いかほどでもいいんですが、それじゃあ、十枚下さい。」
 汪紹生が更に十枚の紙幣を差出すと、相手はそれを無造作に受取りましたが、黒眼鏡の奥から視線をじっと汪紹生に注いでいいました。
「これで終りです。約束は守って下さいよ。つまり、後の分ですっかり帳消しです。あなたが僕から一件を受取ったことも、僕があなたに一件を調達したことも、凡て無かったことになるのです。忘れたのでなく、そのようなことは無かったのです。宜しいですか。」
「宜しい。約束だ。」
「約束などもないんです。」
「なんにもない。」
「そうです、なんにもないんです。」
 黒眼鏡の青年は朗かに笑いました。
 そして二人はまた、楊柳の並木にそって湖岸を歩いてゆきました。
「こんどは、用事のない時に来て下さい。御馳走しますよ。」と黒眼鏡の青年はいいました。「あの女は少々ぶざまだが、小蘇姫という気取った可愛いい奴がいますよ。家はけちでも、洋酒は北京第一で、天津にもないようなものを備えています。酔っ払う覚悟でいらっしゃい。なあに、阿片に酔うよりは、よほど健康的ですよ。だが、
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