採用してみようとしたらしいのだ。」そして彼は苦笑しました。
 ところで、高賓如と柳秋雲とは差向いで、暫く時間を過しました。
「条件はただ、絶対に秘密を守るということだけです。分っていましょうね。」
「承知しております。」
 それだけの応対で、あとはとりとめもないこと、軽い文学の話や果物の話などをしました。
 彼女は方福山の招宴の時と同じように髪を結び、髪飾りをつけ、ただ着物は同じ淡青色ながら、絹が繻子に変ってるだけでした。そして内心に何か堅い決意を秘めて、それを頼りに表面温和にしてるらしいのが、見て取られました。高賓如はその内心の決意みたようなものを探りあてた時、同時に、彼女が懐に何かを、恐らくは小さな拳銃でも、忍ばしているのに気付きました。然し素知らぬ風をしていました。
 彼は説明していいました。「若い女の胸は、手を触れずにそっとしておいてやるべきだ。少くともそれが僕の立前だ。」
 そして三十分ばかりしますと、呂将軍は急務を片附けて隙になりました。高賓如は柳秋雲の先刻からの来着を知らせました。呂将軍はちらと険しい眼色をしましたが、すぐに顔色を和らげて長い髭を撫でました。
 呂将軍は平服に着換え、私室に柳秋雲を迎えました。中央の卓子には夜食の用意がしてあり、片隅の卓子には地図や書類がのっており、長椅子のそばの小卓には阿片喫煙の道具が置いてありました。
 高賓如は他に用務があって、二時間ばかり外出しました。そして戻って来て、呂将軍の様子を聞きましたが、その室の扉は閉されたままだということでした。それで高賓如は、書類の整理にかかりました。
 だいぶ時間がたちました。その時、何か柔かな物に包まれたような軽い爆音と、叫び声らしいものが、伝わってきました。耳を澄しますと、再び、此度は明らかに爆音がしました。
 彼は立上って、然し落着いた足取りで、呂将軍の私室へ行き、扉を開けようとしましたが、鍵がかかっていました。彼は急に足を早めて、中庭の方へ廻り、窓に手をかけ、それが難なく開きましたので、室内に躍りこみました。
 呂将軍が血に染って俯向きになって倒れていました。柳秋雲が手に拳銃を持って、石のように冷かにつっ立って、じっと高賓如の方を狙いました。
「おやめなさい。当りはしません。却って怪我をしますよ。」
 静かな調子でいって、高賓如は彼女の方へ進んでゆき、彼女を無理にそこの椅子へ坐らせました。彼女は倒れるように身を落しました。
「どうしたのですか。」
 彼女は高賓如をじっと見つめていましたが、不思議に美しい声でいいました。
「秘密を打明けた代償として、私の……貞操を要求なさいました。」
「分りました。」と高賓如は答えました。
 そして彼は呂将軍の傷所を調べました。
 彼は説明して、ちょっと呂将軍を弁護しました。「秘密な計画に参加させる女性には、相手によっては、その肉体までも要求することが、最も安全な途とされている。ただ、呂将軍は人物を見分ける明がなかったまでのことだ。」
 呂将軍は、もう息が絶えていました。脇腹に拳銃を押しつけて射撃されたらしく、次には、倒れたところを背後から胸部に一発受けていました。どちらが致命傷だかは不明でした。
 夜食の料理には全く手がつけてなく、酒は少し飲まれていました。地図とその他の書類は繰り広げられていました。そして阿片が吸われていたらしく、その器具は取乱してありました。
 高賓如は柳秋雲に何にも訊問しませんでした。軍装の外套を彼女にまとわせ、拳銃を持たせたままで、その身柄を、自動車の運転兵に旨を含めて、天津の某所に送りました。
 迅速な処理を要しました。高賓如は直ちに、呂将軍の脳溢血頓死と表面を糊塗し、夜を徹して軍の統率を一手に収めました。そしてその翌日、高賓如将軍擁立の民衆行列が行われましたが、高賓如は自らそれを直ちに解散させました。不思議に整然とした行列で、その先頭には、先日南海公園で汪紹生と逢った黒眼鏡の青年が立っていました。他に何事もなく、全市は高賓如の権力の下に静まりました。変事前からの準備が何かあったらしいとの風説がたったのも、無理ないことでありました。
 ただ遺憾なことが二つありました。一つは柳秋雲の行方でありまして、彼女は天津に送られる途中、闇夜のなかで自動車がちょっと故障を起したすきに、全く姿を消してしまったのであります。他の一つは、彼女が荘家の庭でうたった歌の文句で、荘一清と汪紹生とが記憶を辿りまた知能をしぼって如何ほど拵えあげてみても、あの時の印象とは遠いものしか得られませんでした。二人は原歌詞に白塔の歌という題をつけて、柳秋雲を長く偲びましたそうです。彼女の行方は遂に不明のままに終っております。



底本:「豊島与志雄著作集 第四巻(小説4[#「4」はローマ数字、1−13−24])」未来社
   1965(昭和40)年6月25日第1刷発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2007年11月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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