したが、顔を挙げて汪紹生の視線に出逢うと、またすぐに眼を伏せました。
 そして、四時間余に亘る酒宴は別に事もなく運ばれましたが、方福山は突然呂将軍に向って、二人とも何の理解も持っていそうにない音楽の話を初め、あらゆる歌曲のうちでもやはり京劇のそれが最も優れているという結論を引出しました。そして彼は陳慧君に呼びかけて、如何にも自然な無造作な調子で、柳秋雲さんの歌を少し聞かして頂けまいかと頼みました。陳慧君は微笑んで、柳秋雲に何か囁きました。そして不思議にも、柳秋雲はすぐに立上ったのでした。方美貞が喫驚した眼で彼女を眺めました。
 柳秋雲は少し蒼ざめた顔を緊張さして、石のようにあらゆる表情を押し殺していました。そしていいました。
「私は歌妓ではございませんから、ごくつまらないものきり存じませんけれど……。」
 あとは声がつまったようで、そして横を向いて、宙に眼を据えながら、低めの声で歌い初めました。それは普ねく知られている歌曲でありまして、四郎探母という京劇のなかで四郎が母を想って歌う、ゆるやかな悲しい調子のものでした。
 宴席にふさわしくないその歌は、故意の皮肉かとも思われましたが、やが
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