きっかけです。康平さんは突然、拳固で卓子をうち叩いて、ひどく怒りました。芝田さんを罵倒しました。駒井さんを売る気ですか、金貸なんかにおだてられて、自弁で見合なんかさしておいて、なんてざまです、そういって憤慨するんです。芝田さんにとっては意外なことばかりです。ぶつぶつ弁解しようとしましたが、康平さんは耳にも入れません。憤慨が嵩じて、遂には、よろしい、僕がその負債を引受けましょうと、出ていってしまいました。芝田さんはぼんやりそこに居残って、事務員と碁をうちながら、康平さんの帰りを待ち受けました。
「事務員と碁をうって待ってるなんて、実に愉快じゃないか。」とチビはひどく感心しています。
 芝田さんは三局ほど碁をうちましたが、康平さんは帰ってきません。固より、約束したわけでもありません。そこで芝田さんは、立上って、外に出ました。だんだん気持がこんぐらかってくる表情です。ふと思いついて、旧市外にある塗料会社まで、行ってみました。芝田さんは隔日出勤となっていまして、調査課長というのも、云わば顧問の別名みたいなものです。その日は出勤日でなかったのが、誤解のもとでした。数人の者が集って、会社の改革について論じあっていたところなので、芝田さんが来たのも、その問題に関心をもってるからだと思われたようです。四方から、いろいろ意見を求められました。根本は営業部と製作部との勢力争いで、それが大体二派に別れ、販売網のことと製品技術のこととが表面の問題となってるのです。各自が胸に秘めてる二派対立のことは、芝田さんにはよく分らず、ただ質問がうるさくて、会社の立前からということで、いい加減あしらっていました。すると、わきの方で、奥さんの意見も聞いてみようよ、一見識ある奥さんだということだからと、聞えよがしに囁いてる声がしました。恐らく、過激な皮肉な社員なのでしょう。そして奥さんというのは、明かに駒井さんのことを揶揄したのです。いつぞや芝田さんが、雑誌の批評論文のことをきかれた時、あれには助手がいると云って、あけすけに駒井さんのことを話しました。それが社内にひろがり、悪意ある者は、そこに怪しい色合をつけたのです。
 駒井さんに対する揶揄の言葉を耳にしても、芝田さんは別に気にとめませんでしたが、他の人たちが気にとめて、議論は自然に終りました。そして芝田さんは、暫くして、またぶらりと会社を出ました。だが、なにしろ芝田さんは相当知名の士です。両派から目をつけられています。そして呑気な芝田さんは、先に底をわって相談しかけた方へなびきそうです。両派とも、ひそかに芝田さんを口説きに、自宅へ来そうな気配になっているのです。それにまた、会社に対して金銭上の不正が芝田さんにありそうだとの、つけめもあります。だがこれはどうもはっきりしません。
「僕にもよく分らないんだ。」とチビは云いました。

 ぷつっととぎれたチビの話は、ただ表面上のことだけで、而も整理されたり云い落されたりしてる点が、だいぶあるようです。本当はもっと複雑なものなんでしょう。
「それきりかい。」と正夫はききました。
「これまではいいんだよ。これから先が、僕には気にいらないんだ。」
 チビが気にいらないと云うことは、いつも、へんに曖昧模糊とした事柄ばかりです。こんどもそうです――
 芝田さんはその夕方、銀座を歩いていました。知人の文学者に出逢いました。そして一緒に、酒をのみました。文学のことや社会のことを話しあい、酔がまわってくると、芝田さんは、金貸の常見のことや塗料会社のことを、面白そうに話しました。ばかげた話だね、と文学者は簡単にかたづけました。ばかげた話だね、と芝田さんも簡単にかたづけました。その笑い話のうちに、文学者はふと真面目になって、だが、その娘さんに、そんなことから気を惹かれだしたら困るね、と云いました。そうなんだ、と芝田さんも真顔です。結婚問題だの、奥さんという揶揄だの、そんな下らないことから、彼女を見直すようになったら、危険だからね……。そういう話が続いたのです。そして、彼女の健在のためにと、二人で祝杯をあげました。
「それこそ、ばかげてるじゃないか。」とチビは云います。「文学者って、どうしてああばかげたことばかり、問題にするんだろう。だが、それから先の芝田さんは、一層おかしいんだよ。」
 ひどく雨が降って、それがやみかけた頃、芝田さんは文学者と別れました。ふかく考えこんで、裏通りの掘割のふちを、長い間ぶらつきました。それから、自動車をつかまえて、北の方向へ五十銭だけ走れって、そう云うんです。金はまだ持ってるのに、どういうつもりなんでしょう。自動車は走り出しました。そして小川町から聖橋へぬけようとする途中で、芝田さんは急に車をとめさして、降りてしまいました。ニコライ堂の下のところで、広い淋しい薄暗い街路です。石垣や大きな建物や、空地の板囲いなどばかりです。芝田さんはなにか瞑想にでも耽ってるように、うなだれてゆっくり歩いてゆきます。そして聖橋に出ると、いきなり丘の上に出たような、立体的な景色になります。空《くう》に聳えた感じのする橋で、下の方に電車が走っており、更に下の方に、掘割のどす黒い水が淀んでいて、夜分のこと故、その水に灯が映って夢のようです。芝田さんは橋の濡れてる欄干によりかかって、じっと景色を眺めています。いつまでもじっとしています。
「ばかばかしいから、僕は先に帰ってきたが、芝田さんは、たぶん、また自動車をひろって戻ってきたんだろう。」とチビは云います。
 正夫は黙っていました。
「ばかげてるだろう。」
「何が?」
「芝田さんのことさ。」
 正夫は黙っていました。
「こうなると、もう僕には分らない。せっかく、いい人だったんだがな。」
 正夫はまだ黙っていました。
「何を考えてるんだい。」
「君には分らないことだよ。」
「ほほう。」
 チビは暗いなかでおどけた声を出して、耳をかいたようです。
「だがね、もし芝田さんが……。」
 チビが何か云いかけた時、座敷の方がざわざわとしました。見ると、康平さんが来たのです。チビはひっこみ、正夫は座敷の方へ戻っていきました。急に寒くなったようです。もうずいぶん遅いのでしょう。

 康平さんは、洋服をきています。眼には昂奮の色がただよっていますが、顔はなあんだという表情です。それを、芝田さんは迎えて、もうすっかり酔いに落着いた態度で、鷹揚に眼尻には笑みを浮べてるようです。
「まだ酒ですか。」と康平さんは別に不服でもなさそうに云いました。「だいぶ前、電話したら、まだ帰ってませんでしたね。どこをうろついてたんです。もう寝ようとしたが、眠れそうもない。やはり、今晩のうちに片附けたくなって飛んできたんだが、もし兄さんがいなかったら、一晩中でも坐りこむ覚悟でしたよ。」
「僕も、逢いたいと思ったんだが……。」
「そんなら、電話でもすればいいじゃありませんか。いろいろ、話したいことがあるんです。何かと、聞きこんだこともあるし……。兄さんの覚悟を聞いとかなくちゃならない。真剣な話ですよ。どこか、外に出ましょう。自動車は待たしてあるんです。」
 云うだけ云って、康平さんは、どこかに電話をかけに立っていきました。戻ってくると、初めて気がついたように、一座を見渡しました。
「みんな起きてるのかい。正夫もいるんだね。……もう何時《なんじ》です。酒をのむなら、自分一人でおのみなさいよ。みんなを起しとくという法は、ないでしょう。」
「今夜は、特別だよ。」と芝田さんはにこにこしています。
「早く、仕度をなさいよ。……その間に、一杯もらいましょうか。」
 康平さんは杯に手を出しました。
 駒井さんはしつっこく眼を伏せて、室の隅にじっとしています。正夫は縁側に腰掛けて、闇の中に眼をやっています。
「おい、君たちも一杯やれよ。」と康平さんは誰にともなく声をかけました。「こんなに遅くまで、気の毒だなあ。おじさんの真似しちゃいかんぞ。」
 そして、駒井さんにも正夫にも、杯をさすのです。二人とも、お辞儀をしてつつましくのみました。どういうものか、康平さんには親しみがもてないのです。さばけた調子なのですが、どこか角《かど》があるようなんです。骨の堅そうな額と口髭とが、そんな感じを与えるのかも知れません。
 芝田さんが着物をかえて出てくると、康平さんはふと思い出したように、無雑作にポケットから書類を取出しました。
「これ、常見の方の証書です。受取書もついてるから。大事にしまっといて下さい。抹消登記の方は、僕がしてあげます。これだけの金を拵えるには、ずいぶん苦労しましたよ。」
 芝田さんは平然と、まるで当然のことだったというように、書類を受取り、それを駒井さんに預けました。
「君にも心配をかけたが、もうこれで、安心だよ。昨日のあれが、先方では、見合のつもりだっていうから、呆れたものさ。」
 その言葉が、どういうものか、ひどく冷淡に、嘲笑的に響きました。
 駒井さんは顔を胸に伏せ、康平さんは芝田さんを見ながら、眉根に深い皺を寄せました。
 芝田さんはそれに気付かないらしく、ふらふらと立上りました。
「じゃあ行こうか。」
 康平さんは女中にだけ声をかけました。
「大事な話があるんだから、夜明しになるかも知れない。寝てていいよ。」
 二人を、みんなで玄関に見送りました。
 自動車の動きだす音がすると、駒井さんは廊下をまっすぐ、自分の室にはいって行きました。
 茶の間に戻ってきた正夫に、女中が云いました。
「お床《とこ》は、奥のお座敷にのべておきましたよ。」
 正夫はうなずいただけで、立ったまま、煙草をふかしました。

 駒井さんは、机によりかかって、泣いています。さきほどから堪《こら》え堪えてきた感情が、一時にほとばしって、涙となって出てきたような、泣き方です。
 正夫がそっと寄りそって、その背中に手をかけると、駒井さんはいきなり縋りついてきて、また一層泣きだしました。悲しいのでしょうか、嬉しいのでしょうか、どうしたのでしょう。
 だが、正夫もいつしか、涙ぐんでいます。
 しいんとした夜です。
 ちらちら、芝田さんのことが、頭のすみっこにひっかかってきます。正夫は先刻から、妙なことを思いだして、それを考え廻しています。父が鉛筆での走り書きで、「明朗な性格――芝田」という文句です。芝田というのは、芝田理一郎のことにちがいありません。そう交際はなかったようでしたが、遠縁に当るので、互によく識っていた筈です。芝田さんは今でも、たまに、父の噂をすることがあります。
 あの文句は、恐らく、父が死ぬ少し前あたりに、書かれたものでしょう。父は愛読した書物のなかに、符牒のような文句を、いくつも書いています。もう四五年前のことで、はっきり覚えていませんが、父はあの頃、ギリシャ神話をしきりに読んでいました。その神話の或る書物の欄外に、あの文句が書きつけてあるのです。ミダス王の驢馬の耳の話のところです。
 芝田さんを明朗な性格の人だと、父は思っていたのでしょう。それはそれにちがいありません。ところが、その明朗な性格が、あの物語と、どういう関係があるのでしょう。ミダス王とでしょうか、その愚かな耳とでしょうか、その異様な長い耳とでしょうか、その秘密を知った理髪師とでしょうか、秘密を穴のなかに囁きこんだこととでしょうか。謎のようなものです。もしかすると、全く逆に、愚かでない耳とか、秘密を持たない理髪師とかは、明朗だというのかも知れません。
 正夫はそっと、駒井さんにたずねました。
「ねえ、神話の、ミダス王の話、あれを知ってるの。」
 駒井さんは、泣いてる眼で微笑みました。
「ミダス王の驢馬の耳と、理髪師の話、あれですよ。」
「知ってるわ。」
「あれ、どんな意味なの。」
「あの通りの意味よ。」
 駒井さんは、じっと正夫の顔を見て、また微笑みました。
「そんなこと、どうでもいいのよ。」
 そして正夫を引きよせました。
「ご免なさい、泣いたりなんかして。ただ、へんに、恐ろしかったのよ。」
 それで、驢馬の耳も理髪師も、どこか
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