白い朝
――「正夫の童話」――
豊島与志雄

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)暦《こよみ》

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)小説3[#「3」はローマ数字、1−13−23]
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 芝田さんの家の門は、ちょっと風変りです。その辺は屋敷町で、コンクリートの塀や、鉄格子の門扉や、御影石の門柱などが多く、至って近代的なのですが、そのなかに、道路より少しひっこんで、高さ一間半ほど、太さ二抱えほどの丸木が、二本立ち並び、木の格子がとりつけてあります。それが芝田さんの家の門です。丸木の門柱の方は、郊外の植木屋さんにでもありそうなもので、古く朽ちかけていますが、木の格子扉の方は、新らしく白々としています。昼間は、その格子扉が左右に開かれていて、中は砂利を敷いた表庭、竹垣で囲ってあり、檜葉の植込が数本、左手が、玄関になっています。
 或る時、その門柱のそばに、乞食風な男が、小さな風呂敷包みを地面において、じっと屈みこんでいました。すると、外出する芝田さんが、そこを通りかかって、じろりと男の方を一瞥したまま、なんとも云わずに、出ていってしまいました。――そういう風な門ですし、そういう風な芝田さんです。
 その門を、正夫はすたすたとはいっていきました。陰欝に曇った無風状態の天気のせいか、門柱の黝ずんだのと格子扉の白々しいのとが、殊に目立っていますが、正夫は通りなれているのです。ところが、門をはいってから、少し足をゆるめ、小首をかしげて、あたりを見廻しました。そしてふと、檜葉の茂みに黒猫が一匹のぼっているのが、目につきました。
 おや! といった様子で、正夫は黒猫をながめました。黒猫はじっとしていましたが、やがて、頭を振り、口に手をあてました。何かの合図のようです。そうだ、黒猫ではありません。チビです。小さなおかしな奴で、小悪魔なんかと呼ばれてる奴です。
 ――なあんだ、チビか。
 正夫はそう云いすてて、軽蔑したように、そのまま向きをかえ、内玄関の方へやって行きました。

 正夫は茶の間の縁側に腰をかけて、煙草をふかしました。今日は、銘仙の袂の着物をきています。中学生にしては、銘仙の袂の着物は少し早すぎますが、それは中根のおばさんがきせてくれたのです。煙草は少し生意気ですが、袂の着物のてまえ、いたずらにふかしてみてるのです。
 それでも、なんだか落着きませんでした。今日、珍らしいことには、芝田さんから電話で、遊びに来いとのことでしたが、来てみると、芝田さんは不在なんです。書生の丹野もいません。そんな時、いつもすぐ出迎えてくれる駒井菊子さんも、奥の室にひっこんでいます。表の檜葉にチビがのぼっていたのも、こうなると少し気にかかります。
 正夫は立ちあがって、裏の梅の木のところへ行ってみました。梅の実がたくさんなっています。それを一つ取ってかじりましたが、すっぱくて顔をしかめました。
 梅の木の向うに、五六坪の狭い畑があります。畑といっても、何にもつくってありません。芝田さんが時々、襯衣一つになって、汗を流しながら耕してる、ただそれだけの地面です。
「僕はほかに運動をしないから、こんなことをしてるんだが、然し、土いじりをすることは、何よりも身体にいいし、随って、何よりも頭にいいし、随ってまた、身体にいいよ。」
 そんなことを云いながら、芝田さんは、落葉を堆く持ちこんで、それを土に埋めたり、また掘り返したりしていました。この頃はそれにも倦きてか、ほうってあるとみえて、青い草の芽が、あちこちに針のように出ています。
 正夫はその畑地を、微笑んで眺めながら、また、梅の実を一つ取りました。
「正夫さん……。」
 凉しい声で呼ばれました。駒井さんだということは分っています。駒井さんの声はいつも凉しく感ぜられるのです。
「まあ、方々探したのに……。毒ですよ、青梅は……。」
 振向いてみると、向うの窓から覗いてる駒井さんの顔が、光につつまれてるように眩しく思われました。
 けれど、近づいてゆくと、どうしたのでしょう、顔の色は蒼ざめ、眼はくぼみ、髪の毛だけが目立ってきれいにかきあげてあります。微笑んでみせたのが、泣顔のように見えました。

 駒井菊子さんの室は、八畳ですが、へんにちぐはぐな感じです。衣裳箪笥とその上にある貰い物らしい京人形と、箪笥の横の鏡台とだけが、女らしいもので、そのほかは、粗末な本箱や机や灰皿やインク壺や柱掛の暦《こよみ》など、男の下宿部屋みたいです。
 もっとも、芝田さんの家には、どの室にも、用を便ずるに足りるだけの道具きりありません。だいぶ前の話ですが、或る方面から家財道具の差押を受けた時、執達吏と芝田さんとの間に、明快な問答がなされました。――「軸物の類は、お待ちではありませんか。」「ありませんね。」――「なにかほかに、書画骨董の類は……。」「ありませんね。」――「何かありませんか。」「僕の家には、不用な物は一つもありませんよ。」――この最後の言葉を、チビは、ひどく感心していましたが、それも、正夫のところの中根のおばさんに云わせると、不用な物が一つもないというのは、趣味がないことであり、趣味がないのは、人間としての、一つの欠点となるのだそうです。
 そういう芝田さんの家のことです。駒井さんの室だって、中根のおばさんの室みたいに、いろんな物がごたごた並べたて飾りたててはありません。
 それでも、駒井さんの室にはいると、正夫は、柔かな芳香に包まれるような気持がします。正夫は駒井さんが好きなんです。ちっとも瞬きをしないような眼と、弾力性のある口付と、顔を埋めたら息がつまりそうな胸とが、とても好きなんです。
 今日は、その眼がおちくぼんでおり、その唇が乾いており、その胸が堅くなっています。
「病気ですか。」と正夫はやっとのことで云いました。
 お茶をついでいた駒井さんは、「え?」と声をだして、顔をあげましたが、正夫の云った意味が分ると、「いいえ、」と頭を振りました。そして、ふいに、ちらと光が眼に浮いてきました。涙ぐんだのでしょうか。下を向いてた正夫は、上目で、それを見てしまいました。
 ――なにか、心配なことがあるのだろう。
 そう思うと、もう口が利けないんです。
 駒井さんも黙っています。黙ったまま、お茶やお菓子をすすめてくれます。
 正夫は次第に、不安とも不満ともつかない気持になって、投げだすように云いました。
「おじさんはどうしたんでしょう。わざわざ電話をくれといて……。」
「電話……あなたに……いつ……?」
「今朝《けさ》だって。中根のおばさんと、ほかの用かも知れないけれど、話をして、その時、お午《ひる》すぎには帰ってるから、ゆっくり遊びに来るようにって、僕にことづけがあったそうです。」
「そう。どうなすったんでしょうね。」
 駒井さんも、なにか、芝田さんの帰りを待ってるようなんです。もう五時すぎになっています。駒井さんはしばらく考えていましたが、ふいに別なことを云いだしました。
「あなたは、何の花がいちばんお好きなの。」
 だしぬけの問いなので、正夫はちょっと返事に困りました。
 そこへ、来客でした。年とった女のひとで、御主人が不在なら、どなたかお留守の人に……とそう女中の取次です。
「待ってて下さいよ。」と駒井さんは正夫に云いました。「あとで、お話があるから。先生も、じきにお帰りになりますよ。」
 そして駒井さんは、女中から受取った名刺を手に持ったまま、出て行きました。

 正夫はそこに寝そべりました。駒井さんが出してくれた二三冊の書物も、手にとりません。なんだかつまらないんです。
「なにをしてるんだい。」
 囁くような声で、チビがひょっこり出てきました。
 正夫は黙っていました。
「いいことがあるよ。今晩、うまい果物がたくさん食べられるよ。女のひとが来たろう。あの人が持って来てるんだよ。」
「誰のところへさ。」
「もちろん、おじさんとこへだ。けれど、君が食べていいのさ。就職運動のお遣物なんだ。」
「そんなもの、受取っちゃいけないんだろう。」
「ばかだな。君のおじさんは、そんなちっぽけな量見じゃないんだ。持って来た物なら、何でも受取るよ。そこはおっとり出来てる。僕は好きさ。だが……。」
 チビは耳をかきました。
「なんだい。」
「実は、就職運動なんかより、もっと大変なことを待ち受けていたんだが……さっき、そら、表の木の上でね……。」
 それが、へんに不吉に響きます。正夫は身をのりだしました。チビは得意げに眼をぱちくりさして、そして話しました。
 芝田さんが、表面は調査課長として、内実は幹部の一人として関係してる、某塗料株式会社があります。以前のことですが、ここでも、芝田さんらしい話題が残っています。この会社の株券が、百株ほどまとまって売物に出た時、芝田さんは借金をしてそれを買い取りました。そして後に、社員多数の会合の席で公言しました。「僕は本社の株を百株買うことによって、七千円余りの借金が出来た。然し、社の株券はなるべく社員が所有すべしという原則に忠実であることによって、それを自ら誇りとしている。云々。」――そういうことは、変った人だという印象を与える以外の効果はありませんでしたし、社内に勢力を得ることにはなりませんでした。然し芝田さんの真意がどういうところにあったかは、誰にも分りません。その上、芝田さんは実際、変った人でした。一方では、塗料会社の調査課長でありますが、他方では、芝田理一郎といえば、相当有名な評論家であります。文芸方面に関心を持つ社会批評家として、新聞雑誌の上に時折活動しているのです。
 ところで、その会社の内部に、紛擾が起って、二派に分れて勢力争いとなりました。そうなると、評論家として社会的に名を知られてる芝田さんが、目につきますし、両派とも芝田さん引込策を講じました。芝田さんはどちらに対しても、「先ず会社全体の立前から……。」という答弁で、更に要領を得ません。それになお、芝田さんは内々、会社の金を多少流用してる疑いもあるようです。いろいろなことで、探索やら勧誘やらに、今日、両派の人がそれぞれやってくる筈なんです。
「どっちが先に来るか、それが重大なんだよ。」とチビは云いました。
「どっちが先だっていいじゃないか。おじさんはいないよ。」と正夫は云いました。
「知ってるよ。だが、先に来た方に、おじさんはきっと味方するよ。」
 ばかげたことで、チビらしい考え方です。けれど、必ずそうだとチビは断言します。先に来た方に味方する……そこには何か秘密な匂いがあります。「おじさんはそういう人だよ、」とだけチビは云いましたが、そうすると、芝田さんはチビの暗示でも受けてるのでしょうか。
 正夫がなお尋ねようとすると、「あ、いけない、」とチビは頭をひっこめて、逃げていきました。駒井さんが戻って来たのです。

 駒井さんは、ちょっと元気づいてるようです。頬にも赤みがさしています。
「一人で、退屈だったでしょう。今来たひと、金子さんのお母さんですよ。金子さんを、ご存じですか。」
 正夫はそんな人を知りません。
「お話をきいてみると、感心なかたですよ。」
 金子というのは、今年、大学の法科を出た青年です。時々芝田さんのところへも来たことがあり、就職の世話をたのんであったのです。そのお母さんというのが感心で、或るデパートの裁縫部に監督助手として出勤していて、僅かの遺産でこれまで生活をしてきました。でもこれからは、息子の力にたよらなければならない状態です。息子のことをお頼みしますと、くれぐれも云って帰りましたそうです。
 そういう話をしながら、駒井さん自身、いやにしんみりしています。昔のことを思い出してるのでしょうか。
 駒井菊子さんが、女学校の四年生の終り頃のことです。父親が亡くなって、一家は郷里の金沢へ引上げることになりました。小さな弟や妹はとにかく、菊子さんが、あちらの女学校の五年に転校できる
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