かどうか、それが問題になりました。東京の女学校では、五年生の転校は殆んど受付けないのです。どの方面に頼んだらよいか、思案にくれてるところに、父の友人の芝田さんが、助けの手を差伸べてくれました。そして菊子さん一人、芝田さんの家に寄食し、学費も支給してもらって、東京に残りました。学業の出来がよいので、そのまま芝田さんの家に居続けて、女子大学の英文科まで卒えました。芝田さんの奥さんが病身で、葉山の小さな家に転地してる今では、菊子さんは芝田さんの秘書みたいな地位に立ち、かたわら、芝田さんから求められるまま、英語のいろんな書物の梗概などを拵えてあげています。
そうした梗概が、甚だあやしげなものでありますと同様に、秘書の役目も、甚だあぶなっかしいものですが、芝田さんはそれで満足しているようです。男の書生も一人いるのですが、芝田さんの言葉をかりますと、秘書的な役目を忠実に従順に果す者は、女に限るのだそうです。
「金子さんが就職なすったら、あのお母さん、どんなにかお喜びなさるでしょう。」
そう云って駒井さんは、心で自分の境遇を味ってるのでしょうか、空虚な眼付で、でもしみじみと、正夫の顔を見ていましたが、ふと、にっこり笑いました。
「そうそう、今日はあなたに御馳走してあげるわ、ね。」
食卓の上には、正夫が眼をまるくしたほど、いろいろ御馳走がならんでいます。鮎の塩焼や、赤い刺身や、白い水貝などは、殊に目をひきます。ただ、違い棚の上には、大きな果物籠がのっていて、それは包み紙のまま、そっとしてあります。その代り、葡萄酒の瓶が出ています。
芝田さんが不在の折に、そんなことは珍らしいのです。
「おじさんは、まだかしら。」と正夫はへんに落着かず、云いました。
「どこかで、食べていらっしゃるんでしょう。」と駒井さんは云いました。でもやはり気になるとみえて、女中の方へ、「お電話でもありそうなものですね。」
それをまた自分でうち消すように、正夫へ葡萄酒などすすめます。
芝田さんがいないだけでなく、駒井さんと二人で食事をするのが、正夫は極まり悪く、また嬉しく、そのてれかくしに葡萄酒をのみました。頬がほてってきました。
「ねえ、正夫さん、」と駒井さんはじっと眼を据えて云いました、「あなた、先生に叱られたことがありますの。」
「先生って……。」
「ここの……。」
「ああおじさんですか。」
芝田さんに叱られたことなんか、正夫には覚えがありません。
「そうねえ、あなたは別だから……。でも、あたしも、先生には叱られたことがないんですの。怒《おこ》られたこともないようですの。それで、少しも叱られも怒られもしないのは、じつは、全く無視されてるんじゃないかと、そんな気もするんですが、ひがみでしょうか。」
へんに真面目な話です。だが、そんなことは、正夫には分りません。
「おじさんは、きっと、怒ることや叱ることを知らないんでしょう。」
ごまかすつもりでそう云うと、駒井さんはそれをまともにとって、考えこんでしまいました。
へんに黙りがちな、沈みこんだ食事です。たしかに、駒井さんは、ふだんのにこやかさを失っています。
それに、食事の間に、三度ばかり電話がかかりました。「ご主人はいつ頃お帰りでしょうか、どこに行ってらっしゃるのでしょうか……。」そういう電話で、先方の名前は仰言いません、と女中が取次ぎます。だから、秘書格の駒井さんは、そのつど、立ってゆきます。電話室から戻ってくると、苛立ってるのを無理に押し隠してる様子なのです。そして葡萄酒を、自分でものみ、正夫にもすすめます。
九時頃でしょうか、思いがけなく、ざあーっと雨がきました。
駒井さんの室で、二人はトランプをしてあそんでいました。占いめくりのやりっこや、子供らしいゲームです。
雨はますますはげしくなります。時々稲光りがぱっときます。何もかも押し潰すような雨音と、何もかも貫き通すような閃光とは、人の心を躍らせます。正夫と駒井さんとは、顔を見合わせながら、戸外に気をとられました。
もうこれ以上ひどくはなれそうもない、その絶頂の豪雨が、そのまま勢をもち続けています。縁側に立っていって、硝子戸をあけて眺めると、一面にまっ白なしぶきです。その水とも霧ともつかない水気《すいき》が、室の中まで押しこんできます。
そこへまた、電話でした。
「分りませんと云っといて下さい。」と駒井さんは強い調子で云いました。
「でも、本村町の旦那様でございますが……。」
本村町というのは、芝田さんの弟の康平さんです。それをきくと、駒井さんはびっくりしたようで、あわてて出てゆきました。
正夫は一人で雨を眺め、稲光りを眺めました。初め躍りたってた心が、大きな力に押し拉がれて、しいんと静まり返り、その上を、遠い雷鳴の音がころがってゆきます。
駒井さんはなかなか戻ってきません。何をしてるのでしょう。
長い時間がたったようです。
稲光りは遠のき、雨はいくらかやわらぎました。縁側に屈みこんでる正夫の着物は、かるく湿気をふくんでいます。
駒井さんがはいってきて、不服そうに見向きもしない正夫の肩を、いきなり捉えました。
「ねえ、今晩、夜明かしして……遊びましょうよ。泊っていっても、いいんでしょう。お宅へ……中根のおばさまへ、お電話しといたわ。」
正夫は、雨音も消えるようなしいんとした気持でした。
「さっき、度々電話がかかったでしょう、あの時、御主人はってきくから、分らないと答えて、どなたですかと、何度きいても、名前を云わないで、いきなり、ああ奥さんですか、奥さんですね、どうぞよろしく……そしてがちゃりと電話を切るんですよ。向うの声はちがってたけれど、いつも、奥さん……奥さん……て、いやに丁寧らしく、そしてがちゃりと切ってしまうんです。電話をかけてくるくらいの人なら、先生の奥さまが、葉山に転地なすってることくらい、知ってる筈だのに……。」そして言葉を切って、暫くして、呟くように云いました。「それに、どうせあたしは、お嫁にやられるかも知れないわ。」
「お嫁にいってから奥さんになるんでしょう。」
そう正夫は皮肉に云いました。なにかしら不服なんです。
「いいえ、ちがうのよ。両方の話、別々なんです。別々の話よ。だから……。」
駒井さんはいろいろ話したいことがあるようです。それを、どう話してよいか分らないようです。そして正夫の肩を抱きしめる工合に、よりかかってきました。
正夫は急に、駒井さんの胸に顔を伏せました。
「あたし、どこにもいきたくないのよ。」
言葉がとぎれると、雨の音がしとしとと聞えてきました。
「あら、濡れてるわ。」
駒井さんは正夫の背中をなでまわしました。駒井さんの着物だって、しっとりしています。
何かちがいます、想像してた駒井さんと、ちがうんです。姉でもなく、恋人でもなく、母親では勿論なく、遠い冷い、頼りない人です。
正夫は立上って、硝子戸を閉めました。
十一時前頃だったでしょうか、正夫と駒井さんとは、へんに敵意を含んだように、つまらないトランプや花ガルタの遊びに熱中していました。そこへ、気にはしながら予期しなかったことですが、芝田さんが帰って来ました。なおびっくりしたことには、雨はもうやんでおり、書生の丹野もいつしか戻ってきて、自分の室で勉強していました。
芝田さんは、少し雨に濡れていました。坐る時によろけかかって、食卓にがっくりもたれました。酒にでも酔ってるのでしょうか。そしてへんに眼ばかり光らして、黙っています。
その芝田さんを、今日に限って、正夫はなんだか恐《こわ》い気持がします。
正夫の家への電話のことをきいても、芝田さんはぼんやりして、もう忘れてるようなんです。別に用事もなかったのでしょう。晩の御馳走のことをきくと、その残りの料理を出さして、酒をのみだしました。駒井さんが、金子さんからの果物籠をもちだすと、すぐにその包み紙をといて、うまそうなのを物色しだしました。そして金子さんの就職のことを、駒井さんが繰返し頼むのに、ただ気のないうなずき方をしてるばかりです。それから黙ったまま、何の話もせず、眉根を心持ちよせて、駒井さんや正夫や女中の方をじろじろ見ています。
いつものおっとりした芝田さんとは、少しちがっています。その半白の濃い髪と、肉附の多い口元が、人を威圧するようです。
「康平の奴、ひどいことを云いやがって、ひとを動物的だと……。」そう呟いて、うふふと含み笑いをしています。
ほんとに酔ってるのでしょうか。
その時、女中が、お召物がぬれていますからおかえなすっては、と注意をすると、芝田さんは返事はせず、でも素直に、次の室に立っていきました。
駒井さんはじっと、石のように坐ったきりです。
正夫は立上って、庭に出て、大きく息をしました。豪雨の後のまっ暗な空が、ひどく深々と思われます。
「正夫君、芝田さんは少しへんだろう。」
まっ暗な中から声がしました。チビの奴です。
「知らないよ。」と正夫は云いました。
「知らないというのは、知ってる証拠か。」
「ばか。」
「僕にもどうやら、手におえなくなってきた。すっかり見当ちがいだ。」
「いつもちがってるじゃないか。」
「そうでもないさ。隠しておいたが、どうだい、すっかり話してやろうか。」
正夫は返事をしませんでした。けれど、返事がないのは承諾のしるしでしょうか。正夫はそこの、形ばかりの粗末な亭のベンチに、腰をおろしました。
そしてチビが話した事柄は、ひどく複雑なようでもありまた簡単なようでもあって、正夫にはよく腑におちませんでしたが、要するに――
芝田さんの現在の家屋は、一番と二番と二重の負債担保物件になっています。二番担保の方は、金貸業者の常見からの三千円で、可なり悪質のものです。その延滞がちな利息を、駒井菊子さんが使者になって、時折届けてるうちに、先方では次第に元金返済の督促まできびしくなり、一応、ゆっくり逢って話をつけようということになりました。駒井さんにも立合って頂きたいとのことでした。そこで芝田さんは、駒井さんを連れて、さる料理屋に出かけました。先方からは常見と、やはり立合人として、常見の親戚にあたる者で、或る証券会社の社員をしてる、並河という男が来ました。話は至極穏かで、飲食の間にいろんな世間話が出て、芝田さんはいい気持そうに酔いました。それが昨日のことです。
「そんな時に酔うなんて、芝田さんらしくて、愉快じゃないか。」とチビは感心しています。
ところが今朝早く、常見からの速達郵便が届いて、昨夜一晩寝て考えた上のことだが、期限はお待ちするけれど、ついては確実な保証人を一人たてて貰いたく、さもなくば止むを得ざる手続きを取ると、威嚇的な文句なのです。何しろ昨晩は酒の上のことで、はっきりした談合もしていないこととて、芝田さんは慌てて、電話をかけましたが、更に要領を得ません。そこで芝田さんは、先方の家まで出かけて行きました。常見は鄭重にそして冷淡に、手紙と同じことを繰返すばかりです。それから話の合間に、さも内証事らしく声をひそめて、実は並河が、後妻にだが駒井さんをほしがっているし、この縁談をおまとめになりませんかと、そそのかします。この縁談がまとまれば、お貸ししてる金額くらい、いやそれ以上、並河に出させます。並河の執心は深いもので、既に昨晩、それとなく駒井さんに当ってみたらしいですよ。なんかと、薄ら笑いをしています。芝田さんは呆気にとられました。
芝田さんは呆気にとられて、それから途方にくれて、弟の康平さんの事務所をぼんやり訪ねていきました。康平さんは弁護士で、これまで何度か迷惑をかけてるのですが、またのこのこやっていったのです。そして、困ったことが出来たよと、でも呑気らしい調子で、常見とのことを話しました。
ところが、ここでもまた、芝田さんは呆気にとられました。康平さんは、一言も口を挾まずに、しまいまで黙って聞いていましたが、最後に、それは真実ですかと尋ねました。少しも嘘はないと芝田さんは答えました。それが
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