で雛人形も飾らず、菱餅や白酒も手にはいらず、普通の日と同じに過ぎた。その夕方、町の小松屋へでも行こうかなと思って、河岸へ出てみると、夕日が赤くさしてる中に、芽ぐみかけた柳の木によりかかって、じっと河面を眺めてる女がいた。八重子なのだ。俺は近よって声をかけた。妹は振り向いて、まぶしそうに俺を見た。なにか見知らぬ他人をでも見るような眼眸だった。俺はからかってみた。
「悲観してるようだね。雛祭りが出来ないからだろう。幾歳になるんだい。」
 妹は真面目に頭を振って微笑した。だがその眼には涙があった。俺は眼を外らして、夕陽を仰いだ。それから妹と連れだって家の方へ歩いた。何か話がしたかったが、言葉が見付からなかった。すると、妹がぽつりと言った。
「兄さん、また戦争でも初まるといいわね。」
「ばかなことを言うなよ。」
 俺は機械的に返事をしたが、その後ですぐ、妹の言葉の真意が胸にこたえた。妹は戦争のことなどを言ってるのではなかった。
「うん、お前の言う気持は分かるよ。」と俺は言い直した。
 妹はなにか話したいようだったし、俺の言葉を待ってるようだった。が俺は何にも言えなかった。そして二人とも黙って家
前へ 次へ
全25ページ中13ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング