。どうしてああなんだろう。それが私には淋しい。
兄さんは今、どこにいるのかしら。何を考えてるのかしら。煙がまた眼にしみて、涙が出てくる……。
八重子の兄の岩田元彦は、河の縁を逍遙していました。そして考えていました。
――河の悠々たる流れ……。それに似た心境でいたいと願いながら、俺はどうしてもそうなれない。三ヶ年の戦陣生活の後、心身を休める閑静な環境を希求して、それが得られないからであろうか。そればかりではない。俺の手におえないような種類のものが、周囲からひしひしと俺を圧迫してくるのだ。
軍隊では、俺の個人は団体のなかに解消せられて、終日終夜、他人と混淆していた。それから終戦後、俺たちは家畜の群のような一団となって暮し、輸送船につめこまれて、故国へ帰ってきた。ぎっしりつめこまれた上に、船酔い気味の者は寝そべるので、ますます場所は狭くなり、膝を抱えて身を置くだけに過ぎなかった。それから内地の汽車では一層込みあって、つっ立ったまま押し潰されるほどだった。大勢の息と体温とに、俺自身の体臭まで濁ってしまった。
それでも、河のほとりのこの家を望見した時、俺はほっと安らかな息がつけた。時々やって来たことがあるので、よく見覚えがあったし、東京の住宅よりも印象の深いものがあった。屋根の上に大きく葉を拡げてる棕櫚の風情など、心惹かるる趣きを持っていた。ここに母と妹と共に安らかに住むという予想は、心和かな微笑を催させた。体の疲労も一時に忘れた。
然るに、この家の中に私が見出したものは、大勢の群居生活だった。川原にせよ中村にせよ、私にとって見ず識らずの他人ではなかったが、それでも他の家庭の者たることに変りはない。それらの人々が、食膳を共にし、朝から晩まで鼻をつき合せているのだ。起きてから寝るまで、互に挨拶を交わし、何かの応待をし、顔を見合っている。自分だけの場所、自分だけの時間というものを、誰も持っていない。もとより居室はそれぞれ別であるが、日本家屋というものは、殊に平家建てのそれは、甚だ開放的であって、室は室としての独立性を持たない。だから家中の者すべてが殆んど同室雑居に近い状態となる。各自の一隅というものがそこでは無くなる。如何なる社会的共合生活に於ても、各自の魂の憩い場所となり肉体の安息所となる一隅は存在すべきであって、それが無い時、共同生活は単に動物的群居生活に堕するであろう。
俺が驚歎したのは、この中に母が平然と安住していることだった。母にとっては長火鉢のそばに自分の座席さえ一つあれば、周囲で人々が如何に右往左往し混雑しようと、一向平気なのであろう。周囲の混雑をも一種の風景として見ているのであろう。その肥満した身体をどっしりと落着けて、いつもにこにこと愛想がいい。川原一家が去ったあとには、人数も一名多い牧田一家を受け容れることを、苦もなく承知してしまった。中村佳吉は憤慨して俺に言った。
「小母さんはあまり博愛すぎる。」
思いやりのある同情が母の持前なのだ。殊にこういう時勢になると、母はすべての人を気の毒がっているらしい。それでも、牧田一家には、主食ばかりでなく炊事一切を別にして貰うようにと、俺が主張すると、母はそれにもすぐ賛成してしまう。
「その方がよろしければ、そのように申してみましょう。」
こんなことは、母にとってはどちらでも構わないのである。
そうした母だから、八重子の涙をあまり気に留めないのも、無理はない。だが俺は、帰宅してくるとすぐに、妹の涙に気がついた。初めはそれを、群居生活の圧迫からしぼり出される涙だと、俺は思った。俺になるべく美味なものを食べさせて、俺をいたわろうと気を配っていることからしても、それに違いないと俺は思った。
俺自身、帰宅の第一日から、群居生活の狭苦しさと息苦しさとに辟易した。愛想のいい顔付や言葉が俺を取り巻いて、やんわりと締めてくる。せめて、憎悪の念を以て睨み返してやれるような者が、その中に一人でもあればよいのだが、そんな者は一人もなく、俺の方でも皆に愛想よくしなければならない。それは俺がこれまで経験しなかったことだ。軍隊生活が人間を機械化するのと同じに、こうした群居生活は、人間の精神を低俗にし平板にする。それは人間に大きく呼吸することを許さないのだ。
この雰囲気から逃避するため、俺は野をさまよい、河上に釣り舟を浮べ、町の小松屋に通って加代子に馴染んだ。当分静養するという口実のもとに、自由気儘な日を憂鬱に送った。泥酔して加代子に家まで送って来て貰うこともあった。母は加代子にも愛想がよかった。それが却って俺には不満だった。つまり、復員軍人という特権を濫用しながらも、気が晴れなかったのである。その罪を俺は群居生活の息苦しさに帰した。
そしてつい先日、三月三日の雛祭りの日は、居所が狭いの
前へ
次へ
全7ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング