で雛人形も飾らず、菱餅や白酒も手にはいらず、普通の日と同じに過ぎた。その夕方、町の小松屋へでも行こうかなと思って、河岸へ出てみると、夕日が赤くさしてる中に、芽ぐみかけた柳の木によりかかって、じっと河面を眺めてる女がいた。八重子なのだ。俺は近よって声をかけた。妹は振り向いて、まぶしそうに俺を見た。なにか見知らぬ他人をでも見るような眼眸だった。俺はからかってみた。
「悲観してるようだね。雛祭りが出来ないからだろう。幾歳になるんだい。」
 妹は真面目に頭を振って微笑した。だがその眼には涙があった。俺は眼を外らして、夕陽を仰いだ。それから妹と連れだって家の方へ歩いた。何か話がしたかったが、言葉が見付からなかった。すると、妹がぽつりと言った。
「兄さん、また戦争でも初まるといいわね。」
「ばかなことを言うなよ。」
 俺は機械的に返事をしたが、その後ですぐ、妹の言葉の真意が胸にこたえた。妹は戦争のことなどを言ってるのではなかった。
「うん、お前の言う気持は分かるよ。」と俺は言い直した。
 妹はなにか話したいようだったし、俺の言葉を待ってるようだった。が俺は何にも言えなかった。そして二人とも黙って家へ戻った。
 こんな時、昔の二人だったらいろいろなことを話しあったに違いない。その習慣も失われてしまった。群居生活の故だろうか。それもある。然し他にも理由があることを俺は感じた。
 あの河岸で、妹は、全く見ず識らずの他人をでも見るような眼眸で俺を見た。そういう眼眸に、俺は時折出逢うことがあった。そのような時、妹はなにか空虚のなかをさ迷っていたのであろう。その空虚は、遠くに在るのではなく、自分の心の中に在る。俺の心の中にもそれが在る。何かが崩壊して、その後に出来た空虚なのだ。何がいったい崩壊したのか。ただ人間的なものというだけで、まだ俺にはよく分らない。終戦後に俺はそのことを漠然と感じた。今はも少しはっきりとそのことを感ずる。妹もそのことを感じてるに違いない。妹のあのしばしばの涙はそこから来るのであろう。
 このような妹に対して、川原浩一はよくもあんなことが言えたものだ。たとい愛情の表白にしても、椿の蕾だとか、椿の花だとか、手近にあったものにもせよ、よく言えたものだ。牡丹の花とは限らないが、梅の花とか桜の花とか、せめて水仙の花ぐらいならまだよい。椿の花なんか、赤い頬をした肥っちょの田舎娘の表徴ではないか。
 川原の両親にしても、言うことが少しく出鱈目すぎる。俺の消息が途絶えてから、母がすっかり気落ちしてしまっただの、妹が泣いてばかりいただの、いろいろのことを言うが、母も妹も実はしっかりしていたことを俺は本人たちから聞いた。俺の葬式を盛大に取り行なおうと内々評議されていたなどと言うが、そんなばかげた評議がある筈のものではない。どこかにまだ生きてるだろうと希望をかけるのが人情だ。而もこの人情に反したことが、俺の生還を喜ぶ気持の裏付けとして持ち出されるのである。すべて善意による嘘っぱちだ。寧ろ悪意による嘘っぱちはないものか。その方が今の俺には却って嬉しいのだろう。それからいつも、きまって持ち出される前線の話ばかりだ。
 今日の午後の宴席でも、同じことが繰り返された。それがきまりきった酒の肴とされる。もう沢山だ。俺は黙りこむことにきめた。何を言われても、何を聞かれても、ただ無言で押し通してやった。徹底的な唖者になって、俺はただ、自分のうちに見えてきた深い空虚を凝視していた。人間的な何かが崩壊したあとの空虚、おぼろげに理解され痛切に感ぜられるこの空虚は、如何にして填充したらよかろうか。
 俺は憤怒に似た熱情で、無言の態度を守り通した。誰が何と思おうと構うことはなかった。川原の人達を渡舟場までしか見送らないことにしたのも、無言の一つの表現であった。誰も皆、俺を変だと思ったに違いない。母までが、俺の方をひそかに窺ってるようだった。妹は俺の視線を避けながら、俺の方にじっと眼をつけてるようだった。それら愛情のこもった眼ももう沢山だ。俺は一度でいいからすっかり一人きりになりたい。この河岸をこうして逍遙していても、なお誰かが俺の方をひそかに眺めていやしないか。

 夕食は早めに初められました。というよりも、男たちは早めに酒を飲み初めました。岩田元彦に中村佳吉、川原一家と懇意にしていた村の者二人、渡し守の重兵衛爺さん、それだけの人数で、八重子が煮物の皿を運び、加代子が酌をしてまわりました。女主人の芳江は、長火鉢のそばに肥った体を据えて、お燗番をしながら、人々の話を笑顔で聞いていました。
 話はいろいろな事柄に亘り、政治問題にも触れ、農作物のことにも及び、食糧事情なども取り上げられましたが、立ち去った川原一家の人々の噂がやはり中心となりました。
 重兵衛爺さんは一度、婆さん
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