渡舟場
――近代説話――
豊島与志雄
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(例)小説4[#「4」はローマ数字、1-13-24]
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東京近くの、或る大きな河の彎曲部に、渡舟場がありました。昔は可なり交通の頻繁な渡舟場でしたが、一粁あまりの川下に、電車が通じ橋が掛ってから、すっかり寂びれてしまいました。附近の農家の人たちが時折利用するだけで、船頭は爺さんだし、舟も古びたものでした。
この渡舟場のそばに、田舎にしては小部屋の多いちょっと洒落た平家がありました。正木の籬をめぐらし、梅の古枝が交叉し、五本の棕櫚が屋根よりも高く葉を拡げていました。昔はこれが、渡舟場の休憩所でもあり、ちょっとした飲食店でもあり、客を宿泊させることもありました。渡舟場が寂びれるにつれて、この家も空家同様になり、船頭の爺さん夫婦が一隅に寝泊りしていました。
ところが、戦争末期、東京が空襲に曝されるようになってから、岩田の母と娘が東京から疎開して来ました。次で、川原一家四人が東京から焼けだされて来ました。終戦後には、中村の息子がやって来ました。年を越してから、支那奥地に出征して殆んど消息不明だった岩田の息子が、ひょっこり帰って来ました。こうして、この家にはぎっしり人がつまりました。
三月中旬、川原一家は北海道へ行くことになりました。然しそのあとには、牧田一家五人がやって来る約束でした。
船頭の重兵衛爺さんの仕事は殖えました。河向う三粁ほどのところに小さな町がありまして、そこへ地元の物資をひそかに売り出すことを、中村の息子の佳吉は仕事としていました。芋や野菜や豆類が、相当の闇価を負って河を渡りました。また、町の小料理屋の小松屋に、加代子という若い女中がいて、そこへ岩田の息子の元彦はしげしげ通いました。夜遅く河を渡ることもありました。
川原一家が移転する時には、重兵衛爺さんは汗を流して舟を操りました。川原一家は東京で罹災したのですが、主な家財は前以てここに疎開してありましたので、すっかり移転するとなると、可なりの荷物となりました。さまざまな箱や菰包みが、一日のうちに河を渡りました。翌日の午後、川原一家の四人が、河を渡りました。東京の知人の家に一泊して、それから北海道へ向うのでした。
岩田と中村の人たちは、川原一家を町の電車まで見送るつもりでしたが、俄にそれをやめて、渡舟の河岸で別れました。送別のささやかな酒宴のため、老若男女によって多少の差はあれ、誰もみな酔い心地でいました。それが、河岸だけで別れる口実となりました。口実である以上、他に理由があったに違いありません。
川原一家の者が立ち去ったあと、人々は各自の行動を取りました。岩田元彦は河縁を逍遙しました。岩田芳江は晩の煮物にかかりました。手伝いに来ている小松屋の加代子は、食器類を洗いました。中村佳吉は薪を割りました。彼はなにかしら薪割りに快味を覚えているようでした。岩田八重子は風呂の火を焚きました。
風呂の火は、どうしたことか、よく燃えないで燻りました。それを煽ぎながら、岩田八重子は涙ぐんでいました。煙が眼にしみるせいばかりでなく、心で泣いているようでした。実際、彼女は悲しい思いをしていました。
――私はどうしてこう涙もろくなってしまったのかしら。ちょっとしたことにも涙ぐんでしまう。その涙を人に見せまいとする思いだけで、もう涙が出てくる。こんなではいけないと思うだけでも、やはり涙ぐんでしまう。
いつぞや、兄さんが板チョコを二枚持って来て、そっと私に下すった。私はお礼の言葉も言えないで、俯向いてしまった。それから、人のいないところで、その一枚をお母さんに上げたが、ろくにお母さんの顔も見ないで、私は俯向いてしまった。眼が熱くうるんできそうだったし、その眼を見られたら、涙が出てきそうな気がしたのだった。板チョコをかじりながら、私は甘い味を楽しむよりも、悲しい思いをした。
兄さんは時折、それもごく稀にだが、チョコレートだの飴だのピーナツなどを、私に持ってきて下さる。私の方では始終、兄さんのお総菜に気をつけている。だけど、おいしい物はなかなか手にはいらないし、たまに手にはいっても、大勢の人のなかで、兄さんだけに上げるというわけにはゆかない。川原さんにしろ中村さんにしろ、もともと親戚同様の懇意な人たちだから、最も乏しい主食だけは別々でも、お総菜はいっしょに拵えることになっている。だから、兄さんだけを特別扱いにするわけにはゆかない。それでも、私は兄さんになるたけおいしい物を上げたいし、いつも気を配っている。そうしたことが、なにか淋しく悲しいのである。お総菜を
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