拵えながら、わけもなく、ふっと涙ぐむことがある。
 兄さんが帰ってきた時もそうだった。長い間便りもなく、終戦になっても様子が分らず、ただうち案じてばかりいたところへ、ひょっこり帰っていらした。色が黒く、痩せて、眼ばかりぎらぎら光っていた。私は抱きつかんばかりに喜んで迎える筈だった。ところが、どうしたのだろう、口も利けず、ただ涙ぐんでしまった。その涙は、嬉し涙とはちがっていた。もっと複雑な変梃なもので、悲しみさえ含まっていた。軍人である兄さんを通して、わが国の敗戦をじかに感じたからでもない。戦争そのものは私にとっては、ほんとは縁遠いことのように思われたのだから。そんなことより、なにかもっと大切なものがあるようだった。それが何であるかは、今もまだはっきり分らないけれど、ただ、人間というものに、直接に繋がりのあることのような気がする。兄さんを見た時、その大切なものがはっと胸に蘇ってき、胸を衝いて、私はへんに悲しかったのである。
 大切なものが、長い間踏みにじられていた、忘れられようとしていた。今でもそうではあるまいか。それがへんに悲しいのである。
 そうした悲しみに、私は囚えられているらしい。だから、川原浩一さんのあの言葉を聞いても、私は顔を赤らめもせず、殆んど胸のときめきも感ぜず、ただ俯向いてしまった。も少しじっとしていたら、私は涙を落したかも知れない。
 今朝、庭に立って、空模様を見ていると、浩一さんがやって来た。椿の木に赤い蕾がいっぱいついていた。浩一さんはその蕾を二つ三つ折り取って、じっと見ていた。それから、いよいよお別れですね、と言った。私は頷いた。それから暫く黙っていた。すると、浩一さんは言った。
「僕は遠い北海道へ行きますが、あなたのことは決して忘れません。あなたはこの蕾のような人です。もしも、いつかまたお逢いする時があったら、どうか、椿の花のように美しく咲いていて下さい。」
 その言葉を聞いて、私は別に嬉しくもなく、おかしくもなく、なにか悲しい気持ちで、俯向いてしまった。別れが悲しいのではなかった。花のように咲くというそのことが、美しいとか美しくないとかいう事柄を超えて、ふっと胸にこたえたのである。私はかじかんだ蕾のような自分を見た。じっとしていると泣きだしそうな気がしたから、もう何も考えずに、急ぎ足に立ち去った。
 それでも、私はやはり涙ぐんでいたらしい。兄さんに行き逢って、兄さんからじっと見られて、珍らしいことには、どうしたのかと尋ねられた。浩一さんと話してたところも見られたにちがいないし、隠すほどのことでもなかったから、私はありのままをうち明け、浩一さんの言葉も伝えた。兄さんの顔になにか烈しい色が走ったが、それきりで、兄さんは黙って向うへ行った。
 兄さんは怒ったのかも知れない。この頃いったいに、たいへん怒りっぽくなった。怒りっぽいくせに、私には殆んど何にも言ってくれない。この二つが私にはつらいのである。兄さんが、中村佳吉さんのように、私に冗談を言ったり、おおっぴらに怒ったり、いろんなことを話してくれたら、私はどんなにか嬉しいだろう。兄さんはいつでも、一人で考えたり怒ったりして、私には何にも話してくれない。小松屋の加代子さんに対しても、兄さんはそうなのかしら。お母さんに対しても、兄さんはそうなのである。川原さんたちを見送りに町まで行く筈だったのに、渡し舟まででやめてしまったのも、兄さんの一人ぎめによるのだった。兄さんはなんにも訳を話してくれなかった。酔ってしまったから、そしてみんな酔っているから、舟までにしておこうと、言いきってしまったのである。
 川原の小父さん小母さんと浩一さんと浩二さんとが、渡し舟に乗って向う岸へ渡るのを、私たちは水ぎわに立って見送った。薄曇りの空で、水面を吹いてくる風は寒かった。私は両袖を胸もとに合せて、なにか大切な思いをかき抱くような気持でいた。まだ小さい頃、両親に連れられて、箱根に旅したり、那須に旅したりした時のことが、ぽつりと思い出された。亡くなったお父さんのことが思い出された。死亡もまた一つの旅ではあるまいか。そうとすれば、お父さんは一人で旅に出てしまわれた。私もお父さんのように、一人きりで旅に出たかった。山や川や海のさまざまな景色が、次から次へと展開してくるだろう。私はその中に溺れてしまい、何もかも、悲しみをさえ、忘れてしまうことだろう。
 私はいつしか涙ぐんでいた。涙はもりあがって、瞼から溢れそうになった。袖口でそっとそれを拭いた。私は涙を兄さんに見られるのが嫌だった。けれどその心配はなかった。兄さんは私たちから少し離れて、河岸をぶらついていた。なにかじっと考えこんでいるようだった。
 兄さんが考えこんでる時は、怒ってるようにも見える。怒ってる時は、考えこんでるようにも見える
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