雅子と河村とが立ち去ると、木下と信子とは顔を見合った。二人共固くなっていた。信子は下唇をかみしめた。彼等は一言も言葉を交さずに、そのまま病室へ戻っていった。啓介は眠っていた。
その晩、信子は夜通し病人の側に起きていた。
十二
啓介は昏々として眠り続けた。朝になって、本田医学士が見舞って来た前後、彼は二時間ばかり眼を開いていた。それからまた眠った。圧倒し来る魔睡に対して、別に抵抗しようともしなかった。夢幻的な灰白色の眠りに彼は身を任した。
午後になって、雅子は女中の近を連れてやって来た。病人の横に淋しい顔をして端坐しながら、彼女は木下に云った。「昨晩私はどんなに気を揉みましたことでしょう。じっと坐っていると堪《たま》らない気持になってきます。けれども、主人がむつかしい顔をして黙っているものですから、立ち上ることも出来ませんでした。へたに身体を動かしたり、へたな口を利いたりしますと、それが悪い前兆《しらせ》になりそうな気が致しますのです。けれどもお電話がかかって来た時、私はほっと安心致しました。どんなにお待ちしていたか知れません。十二時頃だったでございますね。お言葉を主人に取次ぎますと、ではもう寝たらいいだろうと云ってくれました。私は涙が出ました。ほんとにお影様で……。」そして彼女は病人の寝顔をつくづくと眺めた。注射の時、病人は一寸眼を開いた。然しまた眼を閉じてしまった。二時間ばかりして雅子は帰っていった。「病人がそういうなら、余り側についていない方がいいだろうと、主人も河村も申すものですから。」と彼女は云った。帰る時に、病室の中と玄関とを、妙に慌《あわただ》しく眺め廻した。
啓介はそれらのことを少しも知らなかった。その晩九時頃に眠りから覚めた。重い頭痛がしていた。
「母は?」と彼は尋ねた。
「今日お午《ひる》からお出になりましたが、またお帰りになりました。よく眠っていらしたものですから。」と看護婦が答えた。
彼は頭痛を訴えた。看護婦が顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]《こめかみ》のあたりを軽く揉んでくれた。彼はまた眠った。翌朝五時頃に眼が覚めた。気分が安らかだった。戸を開いてくれと云った。信子が立ち上って、雨戸を開け放した。
冬から春に移ってゆく、清い冷やかな朝の光りが、俄に病室の中に流れ込んできた。天井板の木目が、鮮かに浮出して見えた。層をなして拡っているその木目を眺めていると、ゆるやかな快い波動が心に伝ってきた。揺藍の中に揺られてるような心地であった。頭の底にある遠いかすかな鈍痛が、それに調子を合した。手足の先が妙に重くて、意識の外に投げ出されたようにだらりとしていた。心の中に立ち罩めていた暗い靄が徐ろに晴れていった、遠くに、殆んど眼も届かないほど遠くに、一条の仄紅い光りがさしていた。彼はその光りに心の眼を向けた。縋りつくように見つめた。……生きるということが、生きてるということが、如何に嬉しいかを彼は知った。
顧みると、信子が顔を俯向けながら坐っていた。油気の失せた髪がかさかさに乱れて、その下から死人のような艶のない顔が見えていた。啓介は瞳を定めた。額の皮膚が濡いを失って硬ばって居り、眼の下には黒い隈が出来、頬には深い筋がはいって、窶れた筋肉が一々妙に浮上っていた。そしてそのまま彼女はじっとしていた。
啓介は一種の慄えを感じた。眼の奥が熱くなってきた。眼を閉じると、眼瞼の中が明るかった。きらきらする光りの点が無数に渦巻いた。眼を開くと、室内は朝の光りに隅々まで明るかった。
信子が朝の仕度に立って行くと、啓介は静に身体を動かした。寝返りをしてみたり、仰向に寝てみたりした。動く度毎に、手足の指先まで、細かい神経の網の目が眼覚めてゆくのを感じた。
「僕はどの位眠っていました?」と彼は看護婦に尋ねた。
「一昨日《おととい》の晩からですわ。」
「一昨日の晩から!」と彼は口の中でくり返した。然し時の観念がぼやけていた。同じように連続した時間のみが存在していた。ただ大きな空虚が、大きな中断が、眠りのうらに過しただだ白いものが、ぽかりと口を開いていた。その中に怪しげな姿がつっ立ってくるようだった。彼はそれから眼をそむけた。遠くが見えてきた。青い空、広い野原、静まり返って並んでいる木立、何ものをも肯定する生の息吹き……。彼は大きく息をした。肺尖のあたりがきりきりと痛んで、痰が喉にからまった。彼は顔を渋めた。看護婦が痰吐を取ってくれた。痰を吐き出してしまうと、胸が軽くなった。
木下が室にはいって来た。
「よく眠ったね。」
「ああ。」
それきり黙ってしまった。
彼は木下の全身に対して、訳の分らない反撥を覚えた。長い髪の毛、黒い光りを放ってる眼、先の太い手指、だぶだぶに拡ってるメリヤスの襯衣の袖口、そ
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