るのもいいし、昼寝をするのもいいし、外を歩くのもいいし……。そうそう、啓介は覚えてるかね。私が十二三で、啓介は五つか六つだったでしょう、よく中野や目黒あたりに出かけたもんです。あの辺はまだ全くの田舎でしてね。」そして彼は、その頃の話を一人で饒舌り続けた。「啓介がどうしても私に負《おぶ》さるといってききません。私もやけになって、啓介を負《おぶ》ったままむちゃくちゃに馳け出すと、切角腹一杯つめ込んでおいた筍飯を、すっかり吐いてしまったことがありましたっけ。それから……。」
 河村はふと不安な気分になって、話を止してしまった。皆が、ぽつりぽつりと置かれた将棋の駒のように黙って坐っていた。
 四時頃に本田医学士が来た。木下が玄関に出迎えた。本田は玄関に並べられた下駄を見ながら云った。
「用事のために少し遅くなりましたが、皆来ていられるようですね。どうでした?」
「却って宜しかったようです。」と木下は答えた。
「そうでしょう。人の感情には程度があるもので、如何《どん》な場合にも身体に障るほど激動することは、まあないですね。」
 彼はつかつかと病室にはいっていった。
 午後一時半の看護婦の検査によると、熱三十八度六分、脈百十、呼吸二十六、であった。本田は暫く脈を診て考えていた。懐中電灯を取り出して足先を細かに検査した。診察を済すと、カンフルを右胸に注射した。それから、病人の顔を眺めながら、腕を拱いて長い間考えていた。そして一寸眉を挙げた。頓服薬はまだのんでいないかと尋ねた。まだと看護婦が答えた。彼は新たに頓服薬の処方を書き変えた。時計を出してみて、四時半少し過ぎであるのを見た。今から一時間ばかり後に夕食をやって、食後一時間半ばかりして頓服薬をやるように命じた。そして、翌朝の尿を取って置くように命じた。
 彼はやがて辞し去った。木下と雅子と河村とが玄関まで送ってきた。靴をはきながら彼は云った。
「悪い方ではありません。あれで落付くでしょう。今晩はよく眠らした方がいいですね。余り大勢より、看護婦か誰か一人起きていれば充分でしょう。」
 病室に帰ると、皆はまた沈黙がちになった。木下と河村とは画室の方へ出て行った。信子は婆やと共に食事の仕度にかかった。
 人が居なくなると、啓介は大きく眼を見開いて、母の顔を眺めた。
「お母さん、済みません。」と彼は云った。
「まあ何を云うのです。もう済んでしまったことだから、何も考えないで、早く癒らなければいけません。」
 室内は、妙にだだ白い明るみが次第に薄暗くなりかけていた。雅子は啓介の枕頭に、ぽつねんと坐っていた。
「お母さん。」と啓介はまた云った。
「え?」
「今晩は家《うち》に帰って下さい。」
「え! なぜ?」
「今晩は帰って下さい。」と啓介はくり返した。
「なぜそんなことを云うのです? 私はもうあの女《ひと》のことは何とも思ってはいません。蒼い顔をして看病疲れしている所を見ると、私達の方が悪かったような気さえするんですもの。私に考えもあります。安心していなさい。あなたのために悪いようにはしません。」
「いえ、そんなことではありません。」
「ではどうなんです? 私も一晩位はついていてあげます。あなたが病気になってから初めて来たのではありませんか。幾晩でも起きていてあげます。何でも云う通りに用をしてあげます。あなたが眠ったら、眼がさめないように静にしています。この室に居るのが気懸りなら、向うの室に行っています。一晩位起きていても何でもありません。看護婦さんもあの女《ひと》も疲れてるでしょうから、私が今晩は代りましょう。家を出かける時も、今晩は泊るとお父さんに云って来ました。」
「いいえ、お母さん……。」啓介は涙の眼を瞬いた。「今日は帰って下さい。」
「何をあなたは考えてるのです? 何か気に入らないことでもあるのですか。云ってごらんなさい。あなたの云う通りにしますから。」
 啓介は何とも答えなかった。氷枕の上に頭をかすかに震わせながら、じっと眼を閉じた。雅子はその顔を覗き込んで、閉じた眼瞼から溢れて来る涙を拭いてやった。しまいには彼女の方が泣き出した。そして二人共黙り込んでしまった。
 看護婦が胸の湿布を代える時に、雅子は画室の方へ行った。彼女は河村と木下とに相談した。河村は、病人の言葉に従った方がいいと答えた。医者の言葉をくり返して伝えた。木下はなんとも云わないで考え込んだ。遂に雅子は帰ることにきめた。十一時頃近所の電話をかりて容態を知らしてくれるように、木下に頼んだ。
 七時半頃、頓服薬をのんで啓介がうとうと眠った後に、雅子は漸く立ち上って帰っていった。河村が自宅まで彼女を送ってやった。
 帰る時に、雅子は信子へ云った。
「ではお頼みします、お疲れでしょうけれどね。いろいろ気を悪くしないで下さい。」
 
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