二つの途
豊島与志雄
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)熾《おこ》って
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「臣+頁」、第4水準2−92−25]
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一
看護婦は湯にはいりに出かけた。
岡部啓介はじっと眼を閉じていた。そして心の中で、信子の一挙一動を追っていた。――彼女は室の中を一通り見渡した。然し何も彼女の手を煩わすものはなかった。火鉢の火はよく熾《おこ》っていた。その上に掛ってる洗面器からは盛んに湯気が立っていた。床の間にのせられてる机の上には、真白な布巾の下に薬瓶が並んでいた。机の横には、吸入器や紙や脱脂綿や其他のものがとりまとめて置いてあった。草花の鉢の土も適度に湿っていた。終りに彼女は、病人の額にのせられてる氷嚢にそっと触ってみた。指先に冷りとした感触を受くると同時に、氷の塊りが触れ合う軽い音がした。彼女はあわてて手を引込めた。それから枕頭の硝子の痰吐を覗いた。円く塊《かた》まって浮いている痰の中に、糸を引いたような血の条《すじ》が交っていた。
彼女が眼を挙げると、彼女の顔を見つめている啓介の大きな眼に出逢った。
「あら、眠っていらしたんじゃないの?」
「いや。」と啓介は答えた。
「先刻《さっき》から?」
啓介は首肯《うなず》いた。
「看護婦さんが出かける時から?」
啓介はまた首肯いた。それからこう云い出した。
「あの看護婦は実に現金だね。僕の容態が少しよくなると、看護服をぬいで普通の着物ばかり着ているが、また容態が悪くなると、看護服を着出すからね。この一週間許りは看護服ばかり着ている。」
信子は庭の方へ眼を外した。縁側の障子にはまってる硝子で四角に切り取られた庭は、陰欝に曇った寒空の下に荒凉としていた。雪と霜とに痛んで枯れはてている芝生の間には、湿気を帯びた真黒な土が処々に覗き出していた。
「お前は、」と啓介は云った、「泣いてるね。」
「いいえ。」と信子は答えた。そして鼻を一つすすって、彼の方を振り向いた。
「では眼を大きく開けてごらん。」
彼女はちらと微笑の影を口元に浮べて、眼を大きく見開いた。すると急に、眼の底が熱くなって、大粒の涙がはらはらと溢れ落ちた。彼女は其処につっ伏してしまった。
「そら泣いてるじゃないか。」
彼女は肩を震わしていた。あたりは静かだった。
「もう泣かなくてもいい。」と啓介はやがて云った。「僕が悪かった。許してくれ。僕は時々妙な気持に囚えられる。それは日が陰《かぎ》ってくるような気持ちだ。今迄明るかったものが、急に陰欝になってくる。凡てが頼りなく淋しく思われてくる。すると、自分を思い切って呵責《さいな》みたいような、また一方では何かに縋りつきたいような、訳の分らない感情に巻き込まれてしまう。腹を立ててるのか悲しんでるのか、自分でも分らない。多分その両方だろう。お前が一人でじっと坐っているのを見ると、お前を泣かしてみたいような……そら、僕達はよく二人で、夕方なんか黙って庭に眼を落しながら、心では暮れてゆく淋しい空を眺めて、いつまでもじっとしていたことがあったろう。しまいにお前は、いつのまにか涙を流していたね。……ああいうお前の姿を見たいような気になってくる。そしてまた一方ではそういう自分の心に一種の残忍な苛ら立ちを感じてくる。一体僕は何を求めているんだろう? 自分でも分らないんだ。そしてよくお前の心を痛めるようなことを云ったりしたりする。許してくれ。実際長い間こうして病気で寝ていると、何処か心の中に平衡が失われてくるものだ。お前を苦しめてるのなら許してくれ。僕はお前の幸福を願っている。此度はもう僕も助からないかも知れないと……。」
「いえ、いえ、そんなことを仰言っちゃいや。」
信子は彼の蒲団の襟を両手に握りしめて、耳を塞ごうとでもするように強く頭を打ち振った。こみ上げてくる咳を押し止めて彼が顔を渋めると、彼女は急いで痰吐を取り上げた。それから枕頭のハンケチで彼の顔を拭いてやった。額には粘り気のある汗が出ていた。それを拭き取ると、氷嚢をよくあてがってやった。
「苦しかなくって?」
「いいや。」
「それならいいけれど、なるべく静にしているようにって先生も仰言っていましたから。」
「うむ、これから余りお饒舌《しゃべり》は止そう。それに……、ああ僕はどうしてこうなんだろう。何か云うと、屹度お前を悲しませることばかりしか口に出て来ないんだ。」
彼は眼を閉じた。眼窩が落ち凹んで、鼻と頬骨とが目立って聳えていた。鼻の下と顎とには、薄ら寒い髯が伸びかかっていた。
「足をさすって上げましょうか。」と信子は云った。
「いや、今別にだるくな
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