いから。」
信子は彼の顔を暫く見ていたが、それから、其処に在った雑誌を膝の上に取り上げた。いい加減の所を披いて、見るともなく行を辿っていると、四角な活字の面がちくちくと彼女の眼を刺戟した。その刺戟に馴れてくると、各々の行が静かな波動をなして浮き上ってきた。彼女はその波動に頭をうち任して、何にも考えまいとした。
「信子!」……その声に喫驚して彼女が顔を上げると、啓介がじっと彼女の方を見ていた。
「お前はね、」と啓介は云った、「僕がもし死んだらどうするつもり?」
彼女ははっと息をつめて眼を見張った。
彼はまた云った。
「僕は死にはしない、大丈夫だ。然しもし万一死んだとしたら、お前はどうするつもり?」
彼は唇の片隅に微笑らしい影を浮べて天井に眼をやっていた。それを見て信子は一寸心を落付けた。そして深く溜息をしながら答えた。
「私、またカフェーにでも出ますわ。」
啓介は彼女の方へ顔を向けた。額の氷嚢が滑り落ちたのを彼女が取ろうとすると、彼は頭をずらしながら、その手をつと握りしめた。彼の顔には穏かな光りがさしていた。彼は彼女の顔にやさしい眼を据えた。
「よく云ってくれた。お前はいつも正直だね。大抵の女は、男からこんなことを聞かれると私も死んでしまいますとかなんとか答えるものだ。然し死にはしない。お前は本当のことを云ってくれる。今の僕にはそれが一番嬉しい。」
信子は俄に頬の筋肉を引きつらして、肩を震わした。彼の言葉から或る残酷な傷を心に受けたかのように、そして自ら訳が分らずに、而も否定の意味でではなしに、激しく頭を振った。それから眼を閉じた。きっと寄せた両の眉根に、痛ましい肉の脹らみがぽつりと出来ていた。
啓介は驚いてその顔を見つめた。
「どうしたんだ、え?」
彼女は答えなかった。
「僕が嬉しいと云ったのが悪い?」
「いいえ、いいえ、」と彼女は云った、「そんなことじゃないの。……だって、あんまりですもの……。」
啓介は漠然と、彼女の感情の動きを理解した。然し彼の心には、或る晴々としたそして痛いような明るみがさしていた。
「余りいろんなことを考えないがいい。」と彼は云った。「お前は長い間の看病に弱りすぎている。……然し真実は貴いものだ。真実を回避しようとしてはいけない。僕の云った本当の意味は、今にお前にも分る。」そして彼は水枕の上に頭を仰向に落付けた。「額の氷を新らしくして来てくれない?」
「ええ。」と彼女は答えて、なお暫く坐っていた。それから氷嚢を持って立っていった。
彼はまじまじと天井を眺めた。室の中は薄暗くなりかけていた。彼は心の中にさしている落付いた明るみを取逃すまいとするようにして、仄白い天井板に眼を据えていた。
信子が氷嚢を取代えて戻って来ると、啓介は涙ぐんでいた。彼女が、氷嚢の紐を台木に懸けて彼の額に適度に当てがってくれる間、彼は眼を閉じていた。
「木下君はまだ帰って来ないか。」と彼は尋ねた。
「ええ、まだですわ。」
「この頃よく写生に出かけるようだね。」
「何でも、非常にいい景色を見付けたとか仰言っていらしたわ。」
二人はそれきり黙っていた――看護婦が湯から戻ってくるまで。
二
木下正治は、絵具箱のカバンを肩にかけ、十五号大のカンヴァスを重そうに左の小脇に抱え、右手を外套のポケットにつっ込んで、首垂《うなだ》れながら、荒凉たる晩冬の野を帰って来た。兎もすると、彼の足は引ずり加減になっていた。自分の製作に対する焦燥と不満とを心の底に押えつけて、じっと考えに耽っていた。自分の製作が何物かに裏切られていると同じように、自分の心も何物かに裏切られてはしないかという、漠然とした不安の念が寄せて来た。然し彼の瞑想は、その何物かの本体を探りあてようとする努力よりも、その何物かを抑えつけようとする努力の方に向いていた。
野の間をぬけて、大きな銀杏の木のある人家の角を曲って、自分の家が向うに見える処まで来ると、彼はふと顔を挙げて思い出したように足を早めた。
家にはいると、丁度信子が其処に顔を出した。彼女の窶れた顔に浮んでいる弱々しい微笑の影を見ると、彼は我知らず安心の情を覚えた。そしてそのまま画室に通った。彼が絵具箱や其他を卓子の上に置いていると、信子が扉口に佇んで彼の方を眺めていた。
「今日は如何《いかが》でしたの?」と彼女は尋ねた。
「駄目です。」
そして彼が外套を脱いで其処に投り出す途端に、卓子の上の水差が引っくり返った。水は卓子の一部を濡らして床《ゆか》の上に流れた。信子は走り寄って、卓子の上の物を片附けた。
「いいですよ、」と木下は云った、「婆《ばあ》やがしますから。」
然し信子はすぐに雑巾《ぞうきん》を持って来て拭き初めた。
木下は病人の室の方へ行った。
啓介は黙って彼の顔を見上
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