なずいた。
 木下はすぐに外出の用意をした。先ず丸の内の会社に、啓介の叔父の河村氏を訪ねた。それから上野の自宅に、河村氏と一緒に啓介の母の雅子《まさこ》夫人を訪ねた。

     十一

 約束の午後三時少し過ぎに、雅子は河村に連れられて、木下の家にやって来た。木下は二人を先ず画室の方へ通した。
「今朝からずっと落付いてるようです。」と木下は云った。
 雅子は終始伏目がちにして肩をすぼめながら、あたりに気を配ってるらしかった。真黒に染めた髪を小さく束ねて、縫紋の渋い色の羽織を着ていた。木下はその羽織に対して妙に心が落付けなかった。河村が煙草を取り出して火をつけた時、彼は云った。
「どうか病室の方へ。」
 河村は火をつけたばかりの紙巻煙草を、一口吸ったまま灰皿の上に捨てた。そして先に立って病室の方へ行った。前に二度来たことがあるので、彼は家の様子はよく知っていた。
 信子を病室に置いておかない方がいいだろうと木下は思っていたが、却って居る方がいいと河村はその朝云った。
 啓介は静に仰向に寝ていた。枕頭に看護婦がついていた。信子は室の隅に小さく坐っていた。
 雅子は室の入口に一寸立ち止った。中の様子に慌しい一瞥を投げると、そのまま軽く頭を下げて、つと身を飜しながら、啓介の病床の側まで歩いてゆき、其処にがくりと膝を折って坐った。啓介は徐ろに視線を移して、母の顔を一目見たが、ちらと瞬きをして、眼を外らした。
「啓介さん、私ですよ! 私が……。」雅子は声を喉につまらした。いきなり両手を顔に持っていって、その掌に顔を埋めた。室の中がしいんとなった。
「お母さん!」と啓介は低い声で囁くように云った。眼をつぶっていた。
 落入るような沈黙が続いた。雅子はやがて、小さなハンケチを取出して、眼を拭いた。それから啓介の病床の裾の方を向いて、低く頭を下げ、誰にともなく云った。
「種々御世話様になりまして……。」
 信子は益々低く頭を垂れて、襟に顔を埋めていた。木下はその様子を一寸顧みた。火鉢の上に身を屈めて、炭火をいじり初めた。よく熾った火を高く積み上げては、またそれを壊した。しまいには火箸の先で灰をかき廻した。
 河村は病人の枕頭に廻って、容態表を覗き込んだ。
「なるほど、余りよくないね。」
 雅子は床の間の机の上に並んでいる薬瓶に視線を据えていた。河村の言葉を聞くと急に眼を伏せた。
「心配することはありませんよ。」と彼女は云い出した。「何にも考えないで、静にしているんですよ。木下さんの御話では、病気もそうひどくはないそうですからね。私もついていてあげます。前のことは何にも考えないがよござんすよ。ただ早く癒ることばかり考えてね。皆《みん》なでついていますからね。あなたが病気のことを聞いて、私も早く来たかったけれど、種々……ね。誰も怨んではいけませんよ。」彼女は涙ぐんでいた。「お父さんも初めは怒っていらしたけれど、……私としても、あなたが余りなことをするものだから、……でも決して放りっぱなしにしたわけではありません。あなたが家を飛び出してから、お父さんは何を云っても黙り込んでばかりいらしたし、私もしまいには黙り込んでしまって、御飯《ごはん》の時だって一口も口を利かないことがありました。苛ら苛らしたり急に沈み込んだりして……。」
「そんなことはいいじゃありませんか。」と河村は彼女を引止めた。
「でもね、心では、」と彼女は云い続けた、「みんなあなたのことを許してあげています。お父さんには私からよく云ってあげます。今日私が出かける時、お父さんはそわそわして、家の中をぐるぐる歩き廻っていらしたのですよ。病気さえ癒れば宜しいんです。何もかも私が承知していますからね。あなたは仕合せですよ。みんなでこうして……ほんとにあなたは仕合せですよ。」
 彼女は涙をはらはらと膝に落とした。
「お母さん!」と啓介は叫んだ。
 皆黙っていた。どうにも仕種がなかった。河村は氷嚢吊りの台木に片手でつかまっていたが、ひょいと立ち上って、木下と向い合って火鉢の側に坐った。看護婦はふと思いついたように、枕の氷を取り代えに立っていった。雅子は彼女の後を見送って、そのまま室の中を見廻した。信子が一人離れて坐っていた。信子は低くお辞儀をした。雅子も礼を返した。河村はその時、何か言葉を喉元まで出しかけたが、凡てに無関心なまでに深く考え込んでいる木下の顔を見て、口を噤んでしまった。看護婦は中々戻って来なかった。深い沈黙が落ちてきた。啓介は眼を閉じていた。
 看護婦が氷枕を下げて戻って来ると、「あり難う、」と啓介は云った。
 その言葉に河村は顔を上げて人々を見廻した。
「今日は実にいい天気ですね。」と彼は云った。「こんなだと、今年はわりに春が早いかも知れませんよ。私は春が一番好きです。家にじっとして
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