の頃忙しそうだが、何かまた初めたのかい。」
「いや別に……。」
 木下は言葉を濁して、火鉢の中を覗き込んだ。そして火箸の先で炭火をいじくり初めた。
「そうだ、はっきり形になって現われないうちは、頭の中に芽《めぐ》んできたことは余り人に云いたくないものだ。」
 その言葉は、抽象的の意味でなしにじかに木下の胸を打った。彼は眼を挙げて啓介を眺め、次に信子の方を顧みた。啓介の鋭い眼付と信子の黙々たる姿とは、彼の視線を順次にはね返した。彼は眼のやり場に困って、また火鉢の中を覗き込んだ。
 啓介は快い興奮と暗い不安とを同時に感じた。彼は自分の言葉が如何によく木下の心に響くかを見た、然しその響き方の底に一種の惑乱があるのを見た。彼は二つの感じの間に迷った。それをまぎらすためにこう云った。
「君、煙草を吸ってもいいよ。」
「まだ障るよ。」
「いや大丈夫だ、少し位なら。」
 然し木下は煙草を取出さなかった。そして次の室で吸って来ると云って、室を出て行った。
 啓介は吸入《きゅうにゅう》をしなければならなかった。
 吸入が済んで、ずっと快い気分になって、長々と手足を伸した後も、まだ木下は戻って来なかった。彼はそれが気になり出した。呼んで来るように信子に云った。
「何か御用なの?」
「用はないが、隙だったら呼んできてくれないか。」
 信子は立って行った。然し彼女は中々戻って来なかった。啓介には非常に長い時間のように思われた。
 やがて木下は一人で室にはいって来た。信子は戻って来なかった。
「仕事の邪魔じゃないのか。」と啓介は心持ち眼を細くして尋ねた。
「いや、隙だ。」
「じゃ暫く話していってくれ給いな。」
 然し別に話すこともなかった。二人は大した意味もないことを、ぽつりぽつり話し合った。しまいには黙り込んでしまった。それでも啓介には、木下が側についていてくれることが嬉しかった。種々な夢想を語り合った友、苦しみや喜びに共に心を痛め共に笑った友、自分の真の味方であった友、その友の姿を眼の前に持っているということは、何という喜びだろう。黙って顔を見合せているというだけで、しみじみと力強くなるような気がした。信子がもし其処に居たら、彼は恐らくその喜びを感じなかったであろう。然し今は、ただ距てない友の姿のみが彼の前に在った。何か憂わしげに思い耽ってる木下の顔も、彼には却ってなつかしかった。あたりは静かだった。病室の空気は快く温って濡っていた。
「君は早く癒らなけりゃいけない!」と木下は思い込んだように云った。
「うむ、癒るよ。屹度癒ってみせる。」
「君が健康に復したら、僕はいろいろ君に話すこともある。」
「僕だってあるさ。君の議論に凹まされはしないよ。」
 木下は口を噤んだ。啓介も口を噤んだ。彼は木下の気分に自分の気分を合せることを好んだ。
 然し、一寸用を思い出したからと云って木下が立ち去ると、啓介は突然不安に襲われた。室の中を見廻すと、看護婦が一人ぽつねんと炬燵にあたっていた。信子の赤いメリンスの風呂敷が本箱の上にのっていた。夜眠る時電灯を遠くに引き吊る紐が、割目のはいった柱に下っていた。
 彼は耳を澄した。何の物音も話声もしなかった。不安は焦燥の念に変っていった。次の室との間の襖が、こつこつと軽く叩かれてるような気がした。襖を見つめると、またしいんとなった。襖の向うに測り知られぬ広い世界があった。その世界が真暗だった。何にも見えなかった。木下と信子とがその何処かに居る筈だった。二人は何か親しげに話をしていた……。
「尾野さん、」と彼は看護婦を呼んだ、「痰吐を空けて来てくれませんか。」
 看護婦は立って来て痰吐を覗いた。痰が二つ浮いてるきりだった。彼女は一寸病人の顔色を窺って、それから素直に、痰吐を持って室を出て行った。
 看護婦の戻って来るのが、啓介には大変長く思われた。彼は苛ら立ちながら待っていた。何の音もしなかった。病室の中が妙に明るくなって、その中に閉じ込められた自分の姿がまざまざと見出された。病室の外は広茫とした薄闇だった。薄闇の中に何かの影が次第に見えて来た。信子が居るようだった。木下が居るようだった。看護婦と婆やとが居るようだった。
 後はそっと蒲団の外に身体をずらし初めた。腰から下が石のように重かった。漸く足先が畳に触れると俄に力が出てきた。両手で蒲団をはねのけ、床柱につかまって立ち上ろうとした。手足ががくりと撓んで其処に倒れてしまった。そしてそのまま、畳の上を徐々に匐い出した。眼の奥が暗くなってきた……。
 看護婦が戻って来ると、蒲団の外にぬけ出して長く身を横たえてる啓介の姿を見出した。彼女は叫び声を上げた。信子が馳けつけて来た。執拗に眼を閉じている彼を、再び寝床に連れ戻さなければならなかった。
 木下がやって来ると、彼は静に眼を開い
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