た。
「どうしたのだ?」と木下は云った。
看護婦と信子とは黙って眼を見合った。
「なあに、」と啓介は落付いた声で答えた、「起き上れそうな気がしたので、やってみると、すっかり失敗《しくじ》ってしまった。」
七
看護婦の尾野高子は、現金な看護婦だと啓介が云ったほど、忠実に己の務めを尽した。いつどんな変化が患者に起るかも知れないと、彼女は気遣った。
啓介は初め、感性感冒に罹った。次で気管支加答児と肺炎とを併発した。熱が下っても回復期が長かった。その間を待ちきれないで、まだラッセルが残ってるうちに、彼は無理をして起き上った。或る日外出して雨に濡れた。そして再び高熱に襲われた。床に就いた時、腹部に拇指大の塊りが出来ていた。盲腸炎の疑いがあったが、やがてその疑いが晴れると、病原が不明になった。然し間もなくその塊りは無くなった。然しその時には、肺炎の方がだいぶ進んでいた。――この頃に、尾野高子は看護にやって来た。――ひどい血痰と高熱とが一週間余り続いた。心臓が次第に弱ってきた。熱が三十八度以下になっても、脈搏は百十位の所を上下した。彼は病院にはいることを承知しなかった。
高子は、啓介と信子と木下と三人の間に、次第に円滑さが失われてゆくのを見た。彼女は病人に同情した。木下か信子かが病室に居る時には、一種の反感から隅に引込んで澄していた。然し病人一人になると、心から看護を尽した。苛ら立っている病人の感情に、出来るだけ障るまいとした。夜も遅くまで起きていた。
木下と信子とが、病人の容態は次第によくなってゆくように考えていた間に、高子は容態が却って険悪な方に傾いてゆくのを見て取った。前後二ヶ月に亘る病気に弱りはてた身体の中に、心臓の衰弱と精神の興奮とが続いていった。一方では、心臓痲痺を起す恐れがあり、一方では脳症を起す恐れがあった。その最中に彼は無理に起き上ろうとした。彼の身体にとっては、壮者には想像だに及ばないほどの努力であった。急に熱が三十九度二分に上った。それは一時的の熱ではあったが、心臓と脳とには大なる打撃であった。
初めから病人を診《み》ていた本田医学士は、木下を影に呼んで云った。
「心配なことはありませんが、今が大切な時期ですから、出来る限り安静にさせなければいけません。」
木下は黙って頭を下げた。
本田医学士は、吸入を一切止さして、少くとも三時間おき位には湿布を取り代えるように命じた。それから、一日に四回の注射を命じた。高子は、渡された淡褐色の注射液を眺めて眉を顰めた。
彼女は本田氏を玄関まで送っていって、一寸躊躇した後に云った。
「神経が大層興奮しているようですが、脳症を起すようなことはありませんでしょうか。」
「そうですね。」と彼は一寸考えた。「……なに起しても大したことはないでしょう。」
そして実際、高子の言も本田の言も、共に的中した。軽微な間歇的なものではあったが、明かに脳症の性質を具えていた。
病室に人が居ないと、啓介はよく上半身を起そうとした。じっと空間に据った眼付に凄い光りを帯びて瞳孔が開いていた。両腕には異常な力がはいっていた。容易に信子や高子の思うままにならなかった。然し木下の言葉には素直に従った。床の上に構わると、顔面の筋肉を硬直さしながら、手指を痙攣的に震わした。彼は木下をすぐ側に呼んで云った。
「僕をこの室に一人置きざりにしてはいけないよ。」
「そんなことをするもんか。」と木下は答えた。
「然し信用出来ないからね。」
その言葉は真実だか皮肉だか分らない調子のものだったが、一種悲痛な力が中に籠っていた。
その頃から彼は、高子に対してひどく無関心な態度を取るようになった。高子が室に居ようが居まいが、それを少しも気にかけていないらしかった。彼女が何か云うと、ただ黙って首肯いた。承諾というよりも寧ろ機械的の反応らしかった。服薬や湿布や検温や検脈に、惜しむ所もなく身体をうち任した。重湯《おもゆ》を飲む時に、「少し熱うございますか。」と問われると、「うむ。」と返事をした。「丁度宜しいでしょう。」と問われると、やはり「うむ。」と返事をした。彼女の一寸した手不調から、吸飲《すいのみ》の水が口のはたにこぼれかかっても、彼は黙っていた。彼女の言葉や彼女の為す凡ては、宛も彼自身の一部であるかのようだった。それらを彼は殆んど無意識的に受け容れていた。
然し信子に対して、彼の精神は過敏な反応を現わした。彼は一々彼女の言葉尻を捉えた。彼女の一挙一動を、執拗な眼で見守った。彼女が黙っていると、「何を考えているんだ。」と尋ねた。彼女が少し長く口を利くと、「僕を少し静にさしといてくれ。」と云った。暫くすると、彼女の方にくるりと頭を向けて、「何を澄し込んでるんだ。」と怒鳴った。彼女は種々なだめた。高子も側
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