「まだ、だって? 前から僕に頭痛がしていたことを知ってたのか。」
「あら、そういう意味では……。」
「あら、だけ余計だ。お前はいつも中途半端な間投詞を使ってごまかそうとしてる。」
「まあ何を仰言るの、私いつも嘘を云ったことはないじゃありませんか。」
「うむ、お前はいつも不自然な言葉は使わないし、不自然な態度はしないと云うんだね。僕が何かしても、澄し込んで知らん顔をしてるのが、お前にとっては自然なんだろう。」
「でも私が何かすると、あなたはいつもうるさいとか静にしておいてくれとか仰言るんですもの。」
「だからほうっとけというんだな。」
 信子は口を噤んで何とも答えなかった。
「ほうっとけば向うから折れてくると思ってるんだな。」
 信子はまだ黙っていた。
「お前の方がいつも勝つにきまってるよ。病人と達者な者との戦だから。」
「あなた! そんなことを……。私出来るだけのことはしてるつもりなのに。」
「そして出来るだけ我慢《がまん》してるというんだろう。然し病人には我慢は出来ない。我慢強い方が戦には勝つにきまってるさ。僕はいつも負けている。然しお前との戦に負けたって、僕は別に口惜しくもないだけに鍛えられてきた。僕が悪ければいつでもあやまるよ。」彼の皮肉な調子はいつのまにかしみじみとした調子に変っていた。「然し僕にあやまらせないようにしてくれるのがお前の役目だ。僕は非常に疲れている。疲れている僕をいたわってくれるのがお前の役目だ。僕は非常に淋しい。淋しいから苛ら苛らするのだ。お前の心がこの頃は少しも分らない。お前の身振り、お前の言葉の意味、お前の眼付、お前の顔色、それらのものに包まれてるお前の考え、それは僕に分りすぎる位はっきり分っている。然し僕が知りたいのはそんなものではない。もっと大きな深いお前の魂だ。お前の本体と云ってもいい。それを僕はとり失ったような気がしている。僕に何もかも云ってくれないか。僕はお前に何も咎めはしない。僕の病気が悪いのだ。僕は死ぬかも知れないんだ。」
「いえいえ、そんなことが……。」と信子は叫んだ。
「お前はいつもそう云う。然し、僕が全快しさえしたら……という希望が、お前の心には無くなってるようだ。いや僕自身の心にも無くなってるような気がする。どちらが先にそうなったか分らないが、そういう行きづまった気分を、僕達は互に通じ合っている。一番悪い状態だ。僕にはどうしていいか分らない。二つの石塊《いしころ》のように、触れ合うことが互に傷つけ合うことになるのは、実際堪らない。」
「余りいろんなことを考えすぎなさるからいけないんですわ。」
 その言葉は、啓介が求めている所から最も遠いものであった。彼は、俯向いている信子の顔を、じっと眺めた。彼女はかすかに身を震わした。
「なるほどお前の云いそうな言葉だ。お前はいつも頭で物を云って、心で物を云ったことがない。」
 信子は黙って、益々低く頭を垂れていた。視線を膝の上に落して、肩をすぼめながら両手をきちんと重ねていた。その審問をでも受けてるような様子を見ると、啓介はたまらなく淋しくなった。彼はいきなり上半身を起そうとした。信子は驚いて彼を引止めた。彼が再び枕に頭を落付けると、彼女は彼の手に取り縋って、涙を流した。
「あなた、許して下さい。」と彼女は口の中で云った。
 然しその意味は彼には分らなかった。
「何もあやまることはない。僕達は互に触れ合う面が悪いんだ。」
 彼も涙ぐんでいた。その涙を流すまいとして眼をつぶった。二人共黙り込んでしまった。彼がそっと身体を動かすと、彼女は蒲団の中に手を差入れて、彼の腕をさすり初めた。彼はされるままに任した。いつまでも涙が止まらなかった。看護婦が戻って来ると、彼は涙を見られまいとして、蒲団の襟に顔を埋めた。
「私が代りましょうか。」と看護婦は云った。
「いいえ、まだよござんすわ。」と彼女は答えた。
 然し、次の室に木下の足音がした時、彼女は俄にさする手を休めた。啓介は蒲団から顔を出して云った。
「もういい。」
 襖をことこと叩く音がした。――木下は室にはいる前に、襖を軽く叩く習慣になっていた。信子は啓介の側を離れた。啓介は天井を眺めた。
 木下ははいってくると、信子の方をちらと見やって、火鉢の横に坐った。
「どうだい?」
「相変らずだ。」
 最初の言葉を交してしまうと、啓介は何故ともなく安心の情を覚えた。彼は、一瞬間前の狼狽《うろた》えた自分自身を思い浮べた。それが恥かしくなった。木下の姿を眼の前に見ると、あらゆる気兼や狼狽や敵意や嫉視は消えてしまった。長い髪の毛、ゆったりした額、頬の滑かな面長の顔には少し短かすぎると思われる鼻、肩の張ったわりには細りとした上半身、平素見馴れた親しい友の姿は、彼の心を落付かして、一種の力強さをさえ与えた。
「こ
前へ 次へ
全27ページ中10ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング