た淋しくもなる、」と彼は云った。「推移があるから人生は淋しいのだ、」と啓介は云った。
或る晩、木下は可なり遅くまで病室に残っていた。啓介は眠ってるらしかった。暫く待っても眼覚めそうもないので、彼はそっと立ち上った。そして忍び足で自分の室に帰った。
信子は炬燵にはいったままぼんやりしていた。木下が居なくなると、急に室の中が寒くなったように感じた。それで、火鉢に炭をついで、また一寸炬燵にあたった。何処か隙間があるのではないかと、室の中を見廻してみた。啓介が眼を見開いていた。
「木下君は?」と彼は尋ねた。
「もう御寝みなすったでしょう。つい先刻《さっき》までいらしたけれど。」
「そう。お前ももう寝たらいいだろう。」
「ええ。今晩は何だか寒かなくって?」
「さあ、病気で寝てると寒いか暖いかちっとも分らないが……。」彼は中途で言葉を切って、暫く電灯の光りを眺めていた、そして云った。「お前は淋しがってるね。」
信子は黙って彼の顔を見返した。
「淋しいだろう。」と彼はまた云った。
「ええ。」と信子は口の中で答えた。それからじっと啓介を見つめながら、前より少し高い声で口早に云った。「早くよくなって下さいな!」
「うむ。長く寝てると僕も淋しい。」
啓介は彼女の方に眼を向けた。そして視線を外らした彼女の横顔を眺めた。
「然し木下君が居ることは、僕にとって大きな力だ。」
信子は黙っていた。
「僕は、」と啓介はまた云った、「木下君が側に居てくれる間は、少しも淋しくないような気がする。お前はそんな気はしない?」
信子は黙っていた。
「例えば、木下君が外に出かけて不在だと、妙に頼りない気分に襲われてくる。然し木下君が戻ってくると、何だか安心したような心持ちになる。病気しない前は、僕の方が年齢も上だし、読んだ書物の数も多かったせいか、何かと云うと木下君は僕によりかかって来た。所がこの頃では、僕の方が向うによりかかってゆきたいような気になっている。……お前もそんな気持になることがあるだろう?」
「ええ。」と信子は答えた。
「木下君が居ないと、お前も妙に淋しい顔をしていることがあるね。」
「でも、何だか悲しくなってしまうことがあるんですもの。木下さんが居て下さると力強いような気がして……。木下さんは妙に神経質な所もあるけれど、何処かどっしりしてる所があるようですわ。物につき当っても転ばないような所が……。」
啓介は眼をつぶっていた。彼女は言葉を途切らして、彼が眼を開くのを待ったが、やがて云った。
「眠っていらっしゃるの?」
啓介は眼を開いた。然し黙っていた。
「何を考えていらっしゃるの?」
啓介はちらと眉根を寄せたが、すぐにその眉根を挙げて云った。
「僕は、お前の肖像を木下君に描《か》いて貰いたいと思ってるんだが……。」
「私の肖像を!」
「うむ。」
「いやよ、モデルなんかになるのは。」
「何もモデルになるというわけじゃない。ただ肖像を描いて貰うだけだから。」
「でも……。」
彼女は上目勝ちに鴨居のあたりを眺めながら、身体を少し左に曲げた。そのため少し膝がくずれて、自然に腿から腰へかけて柔かな幾筋もの曲線を作った。曲線の中に歪められた肉体が快く波動していた。わりに細《ほっ》そりとして見える胸部から、ちぎって投げ出されたような円っこい両腕が、手応えのある重みを以てだらりと炬燵の上に置かれていた。眠りの足りない疲れた顔から、夢みるような濡った眼が覗いていた。啓介は、そういう彼女の肉体の表情を眺め、その表情を裏付けている彼女の感情を瞥見した、彼は眉根と鼻と上唇とのあたりに苛立たしい曇りを寄せた、そして云った。
「今のは冗談だよ。」
「何が?」
彼は振向いた信子の視線を避けて、天井に眼をやりながら別のことを云った。
「お前はね、僕が看護婦の手に身体を任しているのを見て、一種の嫉妬に似た……。」
彼はその言葉を云い終えなかった。名状し難い苦々《にがにが》しい忌わしい空気が、二人を囚えた。彼は引きつらした口の片角《かたすみ》をびくびく震わした。彼女は眼を大きく見開いて、輝きの失せた瞳をぼんやり空間に定めた。
二人共黙っていた。
「もうお寝みよ。」と暫くして啓介は苛立たしい声で云った。
信子は我に返ったように深い吐息をした。夜はしいんと更け渡っていた。彼女はも一度啓介の言葉を待った。
「寝ておしまいよ。」と啓介はやがてまた云った。
信子は黙って立ち上った。そして看護婦の横にそっと自分の床をのべた。然し彼女は寝る前に、啓介の額の氷をみることを忘れなかった。啓介は黙り込んで彼女の手元を見ていた。
四
木下は画室の粗末な古椅子に腰掛け、両腕を組んで、描きかけの自分の絵を眺めた。樫の幹や叢は、幾度も絵具を塗り返されて、浮彫《レリーフ》の
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