り快いものではない。出来上ってから見せてくれ給え。……それが出来上ったら、君に描いて貰いたいと思ってるものもあるから。」
「何だ、それは。」
啓介は口を噤んで何とも答えなかった。
三
家は、画室を除いて三室きりなかった。啓介と信子とが飛び込んで来るようにして同居してからは、自然に玄関の土間の横の三畳が婆やの室となり、奥の八畳が啓介と信子との室となり、廊下と壁とを距てた六畳が、木下の居室兼皆の食堂となってしまった。啓介が病気になってからも、ただ奥の八畳が病室に代ったきりで、何等の変化も起らなかった。
食事の時には、婆やが啓介の所についていて(勿論彼の容態が悪い時だけ)、木下と信子と看護婦と三人は、一緒に六畳で食事をした。啓介もそれを望んだし、それの方が台所の用には便宜だった。木下はその時々の気分によって、食事中黙りこくっている時もあれば、盛んに種々なことを饒舌る時もあった。看護婦はそれを木下さんの「曇り」或は「晴れ」と呼んだ。
婆やの仕事の一部分は、いつのまにか信子が引受けてしまっていた。彼女はそれを、より丁寧に、より細心な注意で、やってのけた。彼女は木下の着物を畳んでやった。洋服の埃《ほこり》を払ってやった。汚れ物を婆やに洗濯さしたり、時には下駄の泥を拭いたりした。画室の掃除も時々自分の手で行った。
夜になると、婆やはいつも早く寝たが、皆はよく遅くまで病室に起きていた。皆の途切《とぎ》れ勝ちな話をききながら、啓介は勝手に眠ったり眼を覚したりした。木下が立って行こうとすると、「も少し話さないか。」と啓介は云った。然し別に話すこともなかった。木下は書物を持って来て、寝転んで読んだ。面白い所になると声を出して病人に読んできかした。信子がそれにじっと耳を傾けていた。
「尾野さんはもうお寝みなすったら。朝が早いから。」と信子はよく看護婦に云った。――木下は朝遅くまで寝る習慣だったが、病室の横の方に看護婦と床を並べて寝ている信子は、大抵看護婦と同じ時分に起き上った。――尾野さんは、遠慮のない家の中の気分に感染して、笑いながら先に蒲団を被った。木下と信子とは、そして時々啓介とは、低い声で途切れ勝ちに種々な話をした。これと云って内容の無い、またそれだけに却って親しい気分の籠った話であった。
何の花が一番好きかということで、木下と信子とは議論をした。信子は百合の花が一番好きだと云った。木下は仙人掌《さぼてん》の花が一番好きだと云った。仙人掌の花なんか可笑しくって馬鹿げてる、と信子は云った。百合の花は陳腐で月並だ、と木下は云った。然し百合の花には気品があっていい香りまである、と信子は云った。仙人掌の花はより崇高な気品とより多く余韻のある香りとを持っている、と木下は云った。第一仙人掌そのものが木だか草だか得体の知れない変なものだ、と信子は云った。仙人掌は球形であって、球形は最も円満なものの象徴だ、と木下は云った。それならば百合の根だって円っこい、と信子は云った。然し百合の根は多くの片鱗が集って円いのであって、全体が渾一した球形の仙人掌とは比較にならない、と木下は云った。でも刺《とげ》があるのは本当に円満でない証拠だ、と信子は云った。円満なものにも自身を保護する権利はある、悪を近づけないためには刺が必要だ、と木下は云った。然し刺は人を遠ざける、百合のように心から人を引き寄せる気高さの方が勝っている、と信子は云った。然し百合の花のように万人に媚びるものは真の気高さではない、と木下は云った。仙人掌の花は滑稽で、滑稽なものには気品のありようはない、と信子は云った。……啓介は横から口を出した。
「お前は仙人掌の花を見たことがあるのかい。」
「いいえ。」と信子は答えた。
「なあんだ! それじゃ議論になりはしない。仙人掌の花と百合の花とは凡ての感じがよく似てるじゃないか。」
「あらそうお。」
「似てるかな?」と木下は云った。
郊外の夜は静かだった。時々遠くで汽笛の音がするのが、猶更あたりの静寂さを増した。二人は炬燵を拵えてそれにはいっていた。距てない友情、清くて温い病室の空気、更《ふ》けてゆく静かな夜、それらが一つに融け合って、いつまでも木下を引止めた。思い切って腰を立てようとすると、「こんな晩は遠い旅にでも行ったような気がしますわね。」と信子が云った。啓介はうつらうつら眠っていた。その顔を見ていると、木下は自分自身が淋しくなった。啓介が眼を開くと、「よく眠れる?」と彼は尋ねた。「眠れそうだ、」という返事を聞いて立ち上ろうとすると、「も少し話してゆかない?」と啓介は云った。「私ちっとも眠かありませんわ。」と信子が微笑みながら云った。木下はまた腰を落付けて、フランスの印象派の画家達の話をした。「彼等の苦闘の生涯を想うと、力強くもなればま
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