せたら似合いそうな女、それが、へんにとりすまして、無言の会釈をして、南さんと向いあって腰を下した。
「あの……お手紙あげようと思ってたところですの……。」
 探るような眼付だった。その顔を、南さんはまじまじと不思議そうに眺めた。彼女はかすかに顔色をかえたが、吐きだすようなまた媚びるような調子で――「いやな人ね……。」そしてゆっくりと、「昨晩、あんまり急なんですもの……。」
 南さんは眼をそらして、一語一語考えるように云うのだった。
「すっかり酔ってたもんで、随分無理を云ったんだろうね。」
 登美子は曖昧な微笑を浮べた。
「君に許して貰おうと思って、やって来たんだよ。酔っぱらって、めちゃくちゃになってたもんだから……。だけど、君のお蔭で、ほんとに助かった気がする。」
 どうもいけない。おれは頭をかいた。南さんは少し酔ってはいるが、これじゃあなっちゃいない。ビールをのみ――よくはいる胃袋だ――思い出したように芭蕉の葉を眺め、恥しそうに顔を伏せ、煙草の吸口をやけに噛みしめ、そして云うのだった。
「何もかも云ってしまうよ。僕はほんとに、感謝してるんだ。君の方じゃあ、なんでもなかったんだろうけれど……。」
 登美子はひどく冷淡にとりすまして、それも、どこか慴えてるのを押し隠そうとしてるせいもあるらしく、気味わるそうに南さんの様子を見ていた。
 その時、南さんはふいに両腕を押して、体操でもするような恰好をし、それから拳《こぶし》で卓子を叩いた。
「ビールだ。」
 一人になると、南さんは何か駭然として眼を見張り、やがて急に、両手に額を埋め、上目使いに眼を見据えて、静まり返った。何とも云えない憂欝な表情だった。少しの弾力性もない、泥沼みたいなものだ。そしてその憂欝が、次第に、ごく自然に、自嘲の影を帯びてきた。醜い顔だった。酔いの赤みも、血のけも、そして恐らく一緒に意識も、引潮のように引いて、死の一歩手前の停滞だ。それはおれにも珍らしく、じっと見ていたが……そこへ、登美子が戻ってきた。
「二本一緒にもってきたわ。あたしも飲むわ。」
 南さんは夢からさめたように顔をあげ、眼をしばたたき、身振りで登美子をそばに呼んで、自分のわきに坐らした。そしてビールを飲みながらの話――「僕には、打明けて云うと、一人の恋人があるんだよ。僕はその人を心から愛し、生命をかけて恋している。向うでも、僕をほんとに愛していてくれる。」――きいていておれは首を傾げた。――「ところが、僕たちは、いろんな事情で、なかなか逢えなくなってしまった。然し……いろんな事情……そんなもの、僕に何の関係があるんだ。逢おうと思えば逢えるさ。だが、そうかって、いくら恋しあった仲でも、しょっちゅう逢っていなけりゃならないてこともないだろう。いつか逢えればいいんだ。それにまた、知らないひとに逢ったほうが面白いことだって、あろうじゃないか。」――そうだそうだ……とおれは頷いてやった。――「そういうわけで、僕は可なり身をもちくずして、酒ものめば放蕩もしたものだ。それが癖になって、しじゅう出歩き、仕事もなにも手につかず、根気もなくなり、何事も面倒くさくなったが、それと一緒に、一方では、恋人のことも影がうすれていった。彼女なんかもうどうでもいいと、そんな風に思うようになった。こうなったら、もう恋人もないと同様だね。いや初めからなかったのかも知れないよ。だけど、あるにはある。あるけどない。」――何を云ってるんだ、とおれは呟いてやった。――「ところがだ、その……もう無いに等しい恋人の姿が、ひょいひょい、思いもかけない時に、僕の前に現われてくるんだ。いちばん意外な時、いちばんぼんやりしてる時……まあ云ってみれば、往来を歩いて、曲り角をまがった瞬間だとか、バスから降りて、歩道の上につっ立った間際だとか、酔っぱらって物に躓いて、ふらふらとして、電柱につかまったとたんだとか、さっき君が立っていって、すーっと冷たい風が流れた隙間だとか、そんな時に、はっきり彼女の姿が見えるんだ。どんな顔でどんな身なりだか、そんなことは分らないが、或る光みたいに、音響みたいに、香気みたいに、とにかくはっきり見える。僕は昨年、女房が死んで、その当座、女房のことをよく思いだしたものだが、そういう思い出とはまるでちがう。恋人の姿は、現在生きていて、まざまざと、そこにあるんだ。いつだったか、西に向って、坂を上っていたら、夕方のことで、夕日が真赤にさしてきたので、立上ってそれを眺めていると、坂の上に、彼女がじっと立っていた。僕が立ってる間、向うもじっと、夕日をあびて、僕の方を見ていた。一歩ふみだしたら、もう消えてしまった。」――おれは頭をかいた。――「そしてふだん、疲れた時とか、夜寝る時とか、その恋人のことを考えると、考えただけで、胸がしめつけられて、泣きたくなってくるんだ。自分が呪わしく、汚らしく、そして淋しくなって、もういてもたってもいられなくなる……。自分が悪いんだと、自分を責める。そして結局、彼女に忠実であろうと決心する。酒もやめ、煙草もひかえ、あらゆる執着をたち、自分を清く澄み返らせて、彼女に恥じないだけの者になろうと決心する。だが、その決心は、この次から……この次からと、順々に先に延されて、やはり僕は酔っ払い、ふしだらの限りをつくすんだ。」――おれは眉をひそめた。――「そういうわけで、こんどきりだということが、却ってふしだらになってしまう。そして昨晩みたいなことになる。ほんとに済まなかった。許して呉れ給え。どんな駄々をこねたか、よく覚えていないが、さんざん君を困らせたらしい。そしてあんなことになっちゃって……。僕は今朝、あのホテルのてっぺんで、全くやりきれない気持になった。君が黙って帰ってくれたのも、却ってよかった。自分が惨めになればなるほど、僕にはいいんだ。それで決心が実行出来る。自分を溝《どぶ》の中にぶちこみたいくらいだ。僕は君に感謝してる。みんな許してくれ。ほんとに君に感謝してることで、許してくれ。そして……朗かに握手しよう……。そのために、今日やって来たんだ。分ってくれるだろうね。」――南さんが真剣なだけに、おれもさすがに冷やりとした。――「僕は君を……愛してはいないが、好きなんだ。あのまま別れるのも嫌だから、感謝してることをはっきり云って、何事も水に流して、気持よく握手しよう。」
 登美子は石のように固くなっていた。南さんが手を差出したのも知らん顔で、ビールをあおった。
「ほんとに感謝していらっしゃるの。」
 強い視線をちらと向けた。
「ほんとだ。」と南さんは自ら頷いた。
「あたしも、感謝していますわ。」
 氷のような言葉だった。そして彼女は立上った。
「飲みましょう。あたし、酔っちゃうわよ。日本酒もってこよう。」
 彼女は向うの女給たちに呼びかけた。
「いらっしゃいよ。南さんから、さんざんお惚気きかされちゃったわ。きいてごらんなさい、素敵よ。」
 南さんはもう、快い――錐で痒いとこを突刺されるような感じらしい――微笑を浮べていた。
 おれは頭をかいた。どうもはっきりしないんだ。いろいろなことはよく分るが、それがみんなばらばらでまとまりがつかないし、南さんの話にしたところで、恋人なんて一体何のことだか。だが、訳の分らないちぐはぐなところが、実は肝腎なんだろう。他の女給たちもやってきて賑かになり、南さんもけろりとして冗談口をききだしたし、蓄音機も先程からじゃんじゃん鳴り出し、客もふえてきた。おれも酔っ払うとしようかなと考えた。どうです、と南さんに囁いてやると、南さんはにやりと笑った。気色のわるい笑い方だ。頭の大部分が酔いしびれて真中にぽつりとさめてるところがあるような様子だ。
 それにしても、登美子はあれからちょっと出てきて、たて続けに酒をのんだきり、どこかへ行ってしまった。おれは待ちくたびれて、何をしてるのか見にいってみた。
 向うの、ボックスの奥に、ただ一人ひっこんで、彼女は鉛筆をなめていた。顔を真赧にしていた。その前の書箋をのぞきこんで、ははんとおれは思った。
 彼女は書いていた――
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あなたが私に感謝していらっしゃるように、私もあなたに感謝しております。ばかばかしく感謝しております。――(そこで彼女はつかえている。おれは助言してやった。彼女は書いた。)――私はあなたから特別にお金を頂いたことはありません、昨夜も、だから、対等に感謝してよいわけです。あなたは卑怯です、悪魔みたいです。――(おれは苦笑した。だが彼女がまたつかえたので助言してやった。)――恋人があるのに、よくもたくさんの女が好きになれますのね。私も、恋人はいないけれど、みんな好きになりましょう。それとも、みんな憎んでやりましょうか。でも、御安心下さい。あなたを好きになっても、憎んでも、決してあなたにつきまといはしませんから。――(私は一人で淋しく……と彼女が書きだしたので、おれはびっくりして、それをすっかりぬりつぶさして、助言した。)――お金にもならないのに、誰がつきまとうものですか。あなたはその恋人とやらを、安心して愛しておあげなさい。私はその人の顔に、唾をひっかけてやります。
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 彼女は鉛筆を置いて考えこんだ。涙ぐんでるらしい。あぶない、と思っておれはせき立てた。彼女は書箋を封筒におしこんで、封をするのも忘れて、馳けだしていった。
 南さんは二人の女給を相手に飲んでいた。そこへ登美子はとびこんだ。
「南さん、あたしを好きだと云ったでしょう。いやしくも、好きだと云ったでしょう。ほんとに云ったでしょう。」
 南さんはきょとんとして、言下に答えた。
「ああ言ったよ。」
「そんなら、あたしを抱いて頂戴。さあ、しっかり抱っこして……。」
 南さんの膝にとびのって、その胸に顔を埋めた。だが、そそっかしいにも程がある、あぶなく手紙を取落すところだった。おれはそれを手伝って、オーバーの内ポケットに納めてやった。
 彼女は飛びのいた。
「もういいわ。あたし、南さんの心臓の音をきいちゃったから。すてきよ、ラブ・ユウ、ラブ・ユウ……といってるわ。きいてごらんなさい。」
 そして力任せに一人の女給を南さんの方につきとばした。
「あぶない。……登美子さん、どうかしてんのね。」
「してるわよ。あたし嬉しいんですもの。なんだか……なんだか……へんなのよう……。」
 歌いながら、向うへ行ってしまった。
 座がちょっと白けたが、白けたまま静まって、それが却って酒の味を増したかのようだった。南さんはにこにこして、チーズや水菓子を女給達に奢ってやり、すっかり腰をおちつけてしまっていた。そして元気でもあった。ただ、いつまでもオーバーを着たままでいるところを見ると、やはりどこか身体のしんが冷えていたのだろう。
 もうこれですんだ、という気持で、おれは退屈になって、室の中を散歩してやった。登美子は三人の若い会社員のところで、はしゃいだ口を利いていた。あちらこちらに客があった。だが、おれは一体、このカフェーなるものが嫌いだ。天井にはいろんな色彩を張り渡してるくせに、方々の隅がへんに薄暗く、植木までどっさり持込んである。そしてあちこちの、金網がないだけの動物の小屋みたいなところで、男や女がひそひそと話をしている。女たちは血色がわるく皮膚は荒れ、男たちはどれもこれも、疲れたような、退屈なような、或は物欲しそうな顔をしている。第一、この緑素の少いしなびた植木がいけない。これを見てると、大抵の者は憂欝になるだろう。同じカフェーでも、見通しのきくぱっと明るい広間ならまだいい。明るくなくっても、ダンスホールなら動きがあるから面白い。おれは二階のあるホールで、手摺に両肱をついて見下すのが好きだ。
 その時、いい考えが浮んだ。おれは往来に面した窓の方へいって、下の街路を眺めた。裏通りで、人通りは少く、薄暗かったが、それでもいくらか面白い。そして眺めてるうちに、その窓口の上で、ついうとうとと居睡ってしまった。
 随分時間がたったらしい。おれは眼をさますと、も
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